龍安寺と日本文化私論
龍安寺自体に僕自身は特別な感慨はなく、まあ商売になれば良いんじゃないかという気もしています。
関係無いですが、坂口安吾が戦前に「日本文化私論」というエッセイを残しているので、そちらを引用します。
日本の庭園、林泉は必ずしも自然の模倣ではないだろう。南画などに表現された孤独な思想や精神を林泉の上に現実的に表現しようとしたものらしい。茶室の建築だとか(寺院建築でも同じことだが)林泉というものは、いわば思想の表現で自然の模倣ではなく、自然の創造であり、用地の狭さというような限定は、つまり、絵に於けるカンバスの限定と同じようなものである。
けれども、茫洋たる大海の孤独さや、沙漠の孤独さ、大森林や平原の孤独さに就て考えるとき、林泉の孤独さなどというものが、いかにヒネくれてみたところで、タカが知れていることを思い知らざるを得ない。
龍安寺の石庭が何を表現しようとしているか。如何なる観念を結びつけようとしているか。タウトは修学院離宮の書院の黒白の壁紙を絶讃し、滝の音の表現だと言っているが、こういう苦しい説明までして観賞のツジツマを合せなければならないというのは、なさけない。
(中略)
龍安寺の石庭がどのような深い孤独やサビを表現し、深遠な禅機に通じていても構わない、石の配置が如何なる観念や思想に結びつくかも問題ではないのだ。要するに、我々が涯はてしない海の無限なる郷愁や沙漠の大いなる落日を思い、石庭の与える感動がそれに及ばざる時には、遠慮なく石庭を黙殺すればいいのである。無限なる大洋や高原を庭の中に入れることが不可能だというのは意味をなさない。
芭蕉は庭をでて、大自然のなかに自家の庭を見、又、つくった。彼の人生が旅を愛したばかりでなく、彼の俳句自体が、庭的なものを出て、大自然に庭をつくった、と言うことが出来る。その庭には、ただ一本の椎の木しかなかったり、ただ夏草のみがもえていたり、岩と、浸み入る蝉の声しかなかったりする。この庭には、意味をもたせた石だの曲りくねった松の木などなく、それ自体が直接な風景であるし、同時に、直接な観念なのである。そうして、龍安寺の石庭よりは、よっぽど美しいのだ。と言って、一本の椎の木や、夏草だけで、現実的に、同じ庭をつくることは全く出来ない相談である。
(中略)
俗なる人は俗に、小なる人は小に、俗なるまま小なるままの各々の悲願を、まっとうに生きる姿がなつかしい。芸術も亦そうである。まっとうでなければならぬ。寺があって、後に、坊主があるのではなく、坊主があって、寺があるのだ。寺がなくとも、良寛は存在する。若もし、我々に仏教が必要ならば、それは坊主が必要なので、寺が必要なのではないのである。京都や奈良の古い寺がみんな焼けても、日本の伝統は微動もしない。日本の建築すら、微動もしない。必要ならば、新らたに造ればいいのである。バラックで、結構だ。
京都や奈良の寺々は大同小異、深く記憶にも残らないが、今も尚、車折神社の石の冷めたさは僕の手に残り、伏見稲荷の俗悪極まる赤い鳥居の一里に余るトンネルを忘れることが出来ない。見るからに醜悪で、てんで美しくはないのだが、人の悲願と結びつくとき、まっとうに胸を打つものがあるのである。これは、「無きに如かざる」ものではなく、その在り方が卑小俗悪であるにしても、なければならぬ物であった。そうして、龍安寺の石庭で休息したいとは思わないが、嵐山劇場のインチキ・レビューを眺めながら物思いに耽ふけりたいとは時に思う。人間は、ただ、人間をのみ恋す。人間のない芸術など、有る筈がない。郷愁のない木立の下で休息しようとは思わないのだ。
今のただ古臭いだけの昭和から取り残された街である京都にくらべ、坂口安吾が生きた時代の京都は文化的な街としても歓楽街としても無二の存在だったわけで、その京都という街に対しての愛情も感じられますし、その上での批判で、とても自分の心に誠実な文章だなと思います。
それに比べると、今の、無批判に京都礼賛の声を上げる文化人は、だいぶ堕落してしまったのだな、と思います。これはもちろん(僕の大好きな)さだまさしとかも含みます。もちろん本音を表で吐露しないだけなのかもしれませんが。
坂口安吾という人は、戦中は軍事政権にべったりのおべんちゃら文章を書いたりもしていますが、基本的にはその時の流行に引きづられずに自分の心に誠実な文章を書く人です。それが故に、生まれた時のままの瑞々しさが遠く時代を経て我々にも伝わってきます。価値観の相克や変化が起こった時代に彼の文章を読むと、なおさらその切れ味、妙味が心地よく感じられます。
モビリティ革命的な本
帯にもあるようなデータについて、コンサルティングの観点でまとめ、未来予測をしている本です。個人的には、データの精度は別にして、ここまで精緻に分析している本を他には見たことが無かったので興味深かったです。
たとえば、一人あたり車に $1,000/year しか使わない人はライドシェアサービス(Uberなど)を使った方が割安で、$1,000~12,000 使う人はカーシェアリングサービスを使う方が良い、それ以上使う人は車を所持したほうが良い、という消費分析を元に、市場における部品メーカーや自動車メーカーのシェアや売上がどのようになるか、といったような分析がされています。
未来予測は細かい数値まで落とし込むといろいろと変数が変わることでブレは起こるでしょうが、それでも大局的な未来を理解するため、もしくは現在皆が認識している未来とは何なのかを理解するために、こういう本は有用だと思います。
あわせてこの本も読んでみたのですが、アメリカのこういう種の本によくありがちな、冗長で意味があると思えないストーリー仕立ての物語が辛くて、途中で放棄しました。。おそらく日本人が同種の本を書いたら、ページ量は 1/10 くらいになると思います。
ヒットの崩壊
読了感としては、かなり中途半端な本だな、という印象です。
CD が売れなくなり、デジタル配信も中途半端な中、ライブの収益がアーティストの稼ぎ頭になっている、というのは、ここ10年くらいずっと言われてきていた話です。
その内容について、この本は、業界人に対するインタビュー?と思われる内容の引用・抜粋で肉付けして語られている書籍です。
当書で引用されている内容は、さまざまなウェブメディアで見かけたことあるな?と思われる文章が多いのですが、特に引用元を明記してないのは、権利的に合意が得られているとしても、何か昨今話題になった DeNA の Welq とか Mery とかの問題と同質のものを感じてしまいます。
編集側が一方的に、自分の好む文脈に沿うように発言を切り貼りするのは、あまり文章を書く人として誠実な姿勢とは思えませんし、それが構成上やむを得ないのであればせめてインタビューの全文を読者がフォローアップできるように引用元のリファレンスを記載すべきではないかと、素人ながら思います。
個人的に当書で一番不満なのは、ヒットというものに対する数字的なもしくは学問的な定義や深掘りがされていないことです。
たとえば、BIGBANG など韓流アイドルは、昔の日本のように皆が知っているヒットソングは無いが、東京ドームツアーを何度も実施できるくらい人を集めている。だからライブがより重要になっている。
と語られていますが、それは過去を振り返った場合まちがいなく事実と思いますが、じゃあなぜ BIGBANG がそのようにヒット曲を抱えなくても興行が成功できるのか、その部分に踏み込まないと「ヒット」の本質にたどり着けるように思えません。
また、オリコンのデータが現在は形骸化してその時代の流行を表さなくなった、と書かれていますが、いみじくも音楽業界に関わる人であれば、それを今の時流にそった形で可視化する方法について多少の提言もあって良い気がします。既存の権力に遠慮してか、オリコンを精一杯肯定しつつ、他の(素人目線ではより意味のある)指標と思われるものについても歯切れの悪い記述になっています。主にジャニーズの配慮等々。
個人的には、「ヒット」の定義次第ではあるのですが、音楽業界の売上の中で、ファン一人あたりの必要金額について分析してみるべきなのでは?と読んでいて思いました。
ライブが盛況で、とくに音楽フェスの需要も増え、実際に興行として成功している、ということについて当書では書かれています。
しかし、フェスは、時間も拘束されますし、何よりもお金が決して安くなく、チケットだけでも数万円、滞在費等を含めるとさらに万単位のお金がかかります。
若いころに J-POP などの薫陶を受け、音楽に対する消費という習慣を身に付けている30代前後、もしくはそれよりも上の世代は、今のフェス文化にもお金を投じていると思います。それは、過去の J-POP の隆盛の時代を経た結果音楽に対する愛着や消費への戸惑いの無さを持ちつつ、働いている人が多いでしょうから手元にも自由なお金があるので投資できる、という側面があると思います。
つまりフェスなどのライブ中心の隆盛は、富を持てる人による盛り上がりで、昔のCD時代や、ラジオ・テレビで歌謡曲が流れていた時代にくらべて、一人あたりの客単価・消費金額は大きいぶん、極端に間口が狭まっている可能性があります。
今の、YouTube などで無料で音楽を聴くのが当たり前と感じている 10代の世代が、大人になったときに、果たして今の30代前後の人たちと同じように音楽業界に投資してくれるのでしょうか?
音楽の興行が「ライブ」に傾倒しすぎると、一部のお金に余裕がある御仁に対する、パイの少ない商売になり、結果として尻すぼみになってしまわないか、などと素人ながら不安に思ったりしてしまいます。
その一つの証左として、「大人フェス」などの70年代音楽(ファン世代は50歳~60歳)中心のイベントが大変数が増えていることが、個人的には気になります。もちろんこの世代は日本経済が傾く前になり上がれた世代で若者よりお金を持っていますし、この世代を中心に興行をすれば金銭的な成功は容易になるかもしれません。
もちろん業界とすれば興行が成功すればそれで良いのかもしれませんが、既存の実績者以外、10代などの若者が熱烈に支持する人たちが興行的な意味で成功できない世の中になったら、それは絶望でしかありません。
そういう近未来を解きほぐすためにも音楽業界を支える人たちの数、彼らが投じている一人あたりの金額、世代分布、等々、そういう分析が必要で、それらも無しに「ヒット」を分析しようとすると、有名人のインタビューの継ぎ接ぎや、主観、もしくは既存の権力におもねって構成するしか無くなります。
その結果が、当書のような内容、ということなのかなと思います。
もちろん、音楽ジャーナリストを自称しているだけあって業界に精通しているので、当書に書かれている、ある意味「感」というものも、比較的正鵠を射ている箇所があるようにも思えます。
個人的に、当書の楽しみ方は、この本に事例として書かれているような現象... 特典付きCDを買ったり、紹介されているパフォーマーのライブに参加したことがあったり、フェスに行っていたり...に関わった事がある人が、「そうそう」とシンパシーを感じる、というところなのかなと思います。
それは、極めてサブカル的な受容、という気もします。
IR についての私見
IR (Integrated Resort) 法案の可決が昨年12月に行われ、IR といいながら実質カジノに関する法案のため、ギャンブルに対するアレルギー反応として様々意見が紛糾しているようです。
僕個人としては賛成でも反対でもなく無関心ですが、「カジノ」がそんなに経済的な起爆剤になるのか、という点についてはものすごく不明瞭な気がしますし、私もよくわかりません。
日本の既存ギャンブルは今どういうトレンドなのか、いろいろなニュースなどを引用しながら雑に整理して書いてみます。
週刊東洋経済の「競馬」の特集
2016年11月に発売された週刊東洋経済で「競馬の魔力」と題した特集が組まれていました。
およそバブルの時代からの凋落が激しいオールドエコノミーである、と元競馬ファンの僕でも認識していた競馬の世界ですが、最近は売上的に右肩上がりであるとのこと。
その要因として、インターネット経由で馬券を買う人が増えてきた、ということが挙げられています。JRA(中央競馬) もインターネット投票(IPAT)経由で馬券が買えますが、地方自治体が主催をする地方競馬と呼ばれる競馬レースについて、インターネット経由での売上が大きく、収益向上への影響が高いとのこと。
たしかに、世のニュースを見ていても、かなり景気の良い話を見かけます。
東京都競馬は東京都品川区の大井競馬場でレースを主催していることもあり地方競馬の中でもっとも売上規模が多い団体ですが、そういうメジャープレイヤーだけでなく昔は尻すぼみの激しい斜陽産業の典型だった佐賀競馬などの小規模な主催者も売上が右肩上がりで、あまつさえ黒字化すら達成している模様です。
存続している地方競馬の中でもっとも苦境に立たされているとされていた高知競馬ですら黒字化を達成しています。
昨年度の収支は1億6500万円の黒字
自場売得金は191億3千万円(前年比121.9%増)、他場売得金は64億3千万円(前年比105.7%増)とここ数年、インターネット販売増やJRA(中央競馬)レースの全日程販売などの要因で右肩上がりに売り上げを伸ばしており、昨年度は施設改善基金へ4.7億円積み立て後、1億6500万円の黒字見込みとなっています。
このような形で、競馬の売上が右肩上がりで増加しているようです。
主要因は、インターネット経由で馬券が買えるという手軽さ、が挙げられそうです。
パチンコ産業の最近
それでも、最近はアベノミクスによりあぶく銭を手にした人も少なくないでしょうから、全体的に回るお金が増えて、その分ギャンブルにお金を投じる人も増えただけではないか、という分析も可能です。
では、他の日本におけるギャンブル市場がどのような状況なのか概観します。
まずはパチンコ(パチンコはギャンブルではない、というような詭弁はここでは無視)
パチンコ業界には「日遊協」という業界団体があり、そこが毎年様々な資料を公開しています。以下は「パチンコ景気動向指数」という指数の調査結果。
過去1カ月の収益や売上、粗利などから判断される「全般的業況」は▲45.8ポイントから▲37.7ポイント(前回比8.1良化)まで改善したものの、18期連続でマイナスとなった。
(画像、文とも上記サイトより引用)
この指数がどこまで信頼に足るものかは分かりませんが、信じるとしたら、パチンコ業界の景気は右肩下がりが続き、アベノミクスとは無縁の状態なことが見て取れます。
競馬以外の公営ギャンブル
競馬以外の公営ギャンブルでも好況の兆しが見られる業界があります。
クイズみたいな問いかけになっている記事タイトルですが、復活した理由は「インターネット販売」に軸を傾けたから、ということらしいです。
ネットユーザーを対象とした場合、それまでの競輪レースは20時ころにはレースが終了してしまい終わりが早すぎる。とはいえ観客を入れたら近隣住民への影響を考えて調整が大変。であれば、インターネットに最適化し、観客を入れずにレースを開催すれば良い。
という流れで無観客競輪が実施され、かつ興行的にも成功している、というのがこの記事の内容です。
他にも以下のような記事で同種の内容が語られています。
昨今の公営ギャンブルの好調さは、アベノミクス効果というより、販売チャンネルをインターネットに最適化してきた努力の成果、ということが言えるように思えます。
スマフォゲームはパチンコのライバルなのか?
パチンコが尻すぼみの中、そのパイを奪うことで好調さを維持しているように思える業界が他にもあります。代表的なのがスマフォゲーム業界。
「スマフォの課金ゲームのライバルは、既存のコンソールゲームではなく、パチンコである」
という言説は今までも色々と語られていました。
--「コンシューマーゲームの市場を食っている」という意識はありますか?
岡本 それはよく言われますが、僕は絶対に食っていないと思います。コンシューマーのユーザーは、簡単にお金を出しません。僕が「食ってるな」と思うのは、パチンコ市場です。一回に何万円もお金を出すユーザーを抱えているのは、パチンコだけですよ。
ソーシャルゲームのユーザーは、もともとパチンコのお客さんだったと思います。だから、僕らも、そこを意識して食いにいっています。グイグイ食い込んでいるので。パチンコ業界は相当苦しいと思いますよ。
この辺について、実際にスマフォゲームがパチンコ市場のシェアを奪った、ということが定量的にわかる情報は見つけられていません。
少なくとも、
- 公営ギャンブル中心にお金を賭けるユーザーのインターネットシフトが進んでいること
- そして賭けられる額の総量も市場としては増えていること
- スマフォゲームは一時期の社会問題化された頃のようなべらぼうな粗利を生む業界ではなくなったかもしれないが、未だに莫大な金額が動く業界であること
ということは言えると思います。
スマフォゲーム、特に課金ゲームについても相当に依存性がありますし、お金を伴う遊戯のインターネットシフトの流れからも、スマフォゲームへのシフトが発生しても妥当であると思います。
カジノは人気がでるのか?
まだ実施法案が未整備なため、カジノがどのような形で実現されるのかについてもまだ不明瞭な点が多いです。
なのでなんともいえないのですが、上述のようにギャンブル、もしくは課金という行為についてのインターネットシフトが進んでいる中、その場に訪れることが強いられるIR としての「カジノ」という形態が、果たしてどこまで受け入れられるのかは正直疑問があります。
その場に訪れることで非日常的なことが味わえる空間、と定義しようとしたとき、その場に訪れようというモチベーションが上がるのは、やはり外国からの観光客、ということになりそうな気がしています。
なので巷間で言われているように、インバウンドを対象とした施設でありビジネスを想定するのが一番筋が良い気もします。
そしてたとえ日本人にも開放したとしても、オープン当初の目新しさにより一時期はお客が増えるかもしれませんが、そこまでユーザーの熱狂的な支持を集めるか、というと、忙しい日本人のライフスタイルから考えても物理的な移動、時間の拘束の制約が強くて難しいのではと思っています。
依存症について
それとは別に、依存症について。
私は父が重度のギャンブル中毒者だったため家計が困窮するなど辛い思いを味わった一人です(一番つらかったのは母でしょうが..)
そういう人間を近くで見て、「なぜこのように非合理的な行動にハマってしまうのだろう?」と疑問に思っていました。
その答えを探るために、以前以下のような本を読んだりしました。
ものすごく割愛して書くと、ギャンブルに「ハマる」人の頭の中では
- 脳内でベータエンドルフィンと呼ばれる脳内麻薬物質が分泌されている状態である、
- 脳内の報酬系が特定のプロセスを経て結果を得ることに対して過剰に反応する状態である
といった事が脳内で起こっている、と言われています。(当書の中ではともに仮説です)
また環境的な要因として
- 初心者が誰でも成功できる可能性があること
- 高い賭博性があること
- 誰でも容易に参加できる環境(インターネット経由で楽しめたり、すぐそばにお店があったり)や、のめり込む環境(消費者金融などで手軽にお金が借りられてしまう)が揃っていること
ということがのめり込んでしまう環境的な要因として挙げられています。
この辺はより研究が進み、医学的なアプローチで「病気」として分析が進み、対策手段の整理と実施が行われていくことを望みます。
そして、依存症については、物理的な移動という制約を伴うパチンコですらあそこまでの依存症患者を生み出してしまうことを真摯に受け止め、インターネットシフトなどの購入や参加への利便性の向上については絶対にどこかで歯止めをかけるべきだと思っています。
個人的な強い思いとしては、上述の公営ギャンブルについても、インターネットシフトにより売上が上がると単純に喜ぶのではなく、そのことにより今まで以上にギャンブル依存症が深刻になるリスクを考えるべきで、依存性患者の防止や治療のために対策がもっとなされるべきです。
そして、高年齢層に対象者が多い公営ギャンブルよりもまず何よりも先に、全年齢層に対象が広がっていてユーザー母数も市場も大きい現在のスマフォゲームに対する、法的な厳しい規制が求められる気がしています。
これらのはなしを前提に、IR の話も進んでいってほしいな、と思います。
教養としての「昭和史」集中講義
教養としての「昭和史」集中講義 教科書では語られていない現代への教訓 (SB新書)
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この方は学習院大学の大学長を勤められている方のようですが、ファクトの積み上げが何よりも大事な歴史の本で、リファレンス(引用元の文献)がほとんど記載されていない時点で、個人的にはこの本に書かれている内容はかなり眉唾ものとして当書は読んでいます。
たとえ確かな事実の積み重ねとしても、アカデミアの人がそんな姿勢で本を書いてよいのか、という意味でも点数が下がります。
ただ、一貫して記載されているのは、先の第二次大戦は「回避するチャンスがなんどもあった」ということで、我々が今後戦争を起こさないために、過去の忌まわしい歴史の分岐点の中でどのような選択肢が存在し、結果としてどのような選択をしてしまったのか、思索を巡らせるためにはとても良い書籍だと思います。
この本のストーリーをベースに過去を批判する、というよりも、今の時代に立脚して、歴史には必ず選択肢があり、どのような選択をすることで未来がどうなってしまうのか、我々自身がよく考え、そして責任を持つことが、姿勢としてとても大事だと思います。
もし、上記のような発想にたどり着くことが知的人間として正しい姿である、と著者が考え、この本を記述しているとしたら、「教養として」というタイトルは真に正しいタイトルであるな、と思います。
米中もし戦わば
この本は、この本に書いてある分析が正しいかどうか、という観点より、この本の著者であるピーター・ナヴァロがトランプ政権の役職(国家通商会議 委員長)に就く、ということが重要な気がします。
この書籍は紙にして400ページあるので僕も精読というよりは拾い読みに近い通読しかしてないですが、軍事大国化した中国に対してアメリカがいかに対峙するか、軍事衝突の可能性はどの程度あって、リスク・経済的損失はどの程度発生するのか、について書いてある書籍です。
各章の最初に設問を設けて、QA 形式で読者に考えさせることで話に引き込むような書き方をしているので、ページ数の割には読みやすい本かなと思います。
個人的には、リファレンスはきちんと記載はしていますが、数字的裏付けが甘いように見え、この人の主観が存分に強調された書籍になっているような気がします。
とはいえ、中国が、無視できない軍事大国になってしまったこと、その力を武器に国際的な取り決めやルールを無視して自分本位な政策や他国への侵略を繰り返していること、そのことが日本を含む近隣諸国への絶大なる脅威になっていること、は事実です。
いずれにせよ、結論の中で、軍事衝突のリスクを避けるために同盟国との同盟の堅持や、軍事力を保持することにより拮抗を保つべきであること、そして中国を緩やかに経済的に封鎖するべきである、ということを当書の中で記述しています。
経済封鎖の一つの手段として、中国に移管されてしまった工場などアメリカの産業を、法人税減税によりアメリカに呼び戻すべきである、とも述べられています。
そして、トランプ氏からは当選後、早速法人税を 15% に減税させる、というメッセージが発せられています。
当書について、果たして分析がどこまで妥当なのか、という観点では異論反論がありそうですが、トランプ政権がどういう方向に進んでいくのか、どのような観点で政策を実施するのか、その参考の一助になる書籍になるのではないかと思います。
関白宣言
長友・平愛梨の結婚会見で、平愛梨が「関白宣言が理想」と発言したことで色々過去を蒸し返す感じで賛否両論な感じになっているようです。
歌がコミックソングであろうと、そういう文脈に関係なく妻に対する不寛容に思える封建主義的な歌詞がこのような過剰な反応を今も昔も引き起こすのでしょうが、しかし当人が「そうしたい」と言っているのだからいちいち干渉するのも野暮で、当人の好きにさせれば良い気もします。それを「否」というのも、だいぶ不寛容な姿勢な気がします。
個人的に「関白宣言」という歌はそこまで好きでも嫌いでもありませんでしたが、改めて歌を聴いてみると、結婚に際した男性の覚悟みたいなものが伝わってくる歌だなと思います。
好き勝手言っているように見えても、そういう事を言っても信頼してもらえるだけの男としての度量や愛情がベースに無いと、作り物の歌としてもリアリティがなくなります。今はそこまでの男でないかもしれないけど、そんな男になりたい、という意思表示の歌、という感じですね。
実際、よく歌詞に耳を傾けると、世間的に流布しているような男尊女卑的な事を歌っていることはなく、この歌の男性は女性を組み敷きたいわけでもないし、女性のことが好きで好きでしようが無いんだろうな、と感じさせます。
僕が一番心に残り、「ああそのとおりだな」と感じさせる歌詞は、二番のサビである以下のもの。
幸せは二人で 育てるもので
どちらかが苦労をして つくろうものではないはず
ミスチル風にいうと、「一番言いたいことは2番のサビで歌う」という感じなのでしょうか。この歌も、一番伝えたい内容というのは、こういうことなのではないかと思ったりします。