母親に聞かせたかったさだまさしの歌
僕はさだまさしが小学生の頃から好きですが、母親と一緒にコンサートに行ったことはありませんでした。ある意味親不孝なのかもしれませんし、実際のところ自分の趣味を押し付けないというのは親孝行の姿なのかもしれません。
僕の母親は、豊かでない時代に青春時代を過ごし、中学を卒業後すぐに上京をして働き、家庭を持ってからもあまり仕事にも家事にも熱心でない夫の肩代わりのように家族の中心で支え続け、離婚を経験しつつも父が脳卒中で倒れたあとは献身的に支え続けている人です。なぜそこまで強く生きることができるのか、僕のような生半可な人間では到底及びつかない偉大な人です。
そんな母親に、ただ単純に感謝の言葉を伝える以上に、母親の心に寄り添うような事ができないか、といつも考えていました。
2年前の2015年に、「風の軌跡ツアー」という、同名のアルバムの名前を冠したツアーが行われました。
このツアーのセットリストは非常によくできており、かつ今の母親にぜひ聞かせたいと思わせる曲が多かったため、僕の人生でいまのところ唯一、母親を連れてさだまさしコンサートに行きました。
さだまさしの歌う世界を通じて、僕の伝えたい気持ちを抽象的に代弁して伝えることができるのではないかと思って。
セロ弾きのゴーシュという歌は、宮沢賢治の有名な小説から名前を借りた曲で、夫をなくした未亡人の追憶の日々を歌った歌です。
今の母も、物言わぬ人となってしまった父の介護をしながら何を思っているのか、過去の辛いこと、それを乗り越える力の源泉となった父への尽きることない愛情、楽しかった思い出、そんなものが胸に去来しながら日々を過ごしているのかもしれません。
そして変わり果てた姿を日常として捉えつつ、過去の眩しい思い出にふと心が揺らぐこともあるのかもしれません。
市場へ行こうと思うの ねェ思い出も売ってるといいのに
療養所と書いて「サナトリウム」と読ませます。
入院をしている青年が、同室となった病床に置かれた老婆の姿を思い歌った歌です。
どのような綺麗事を並べても、人は老い、いずれ死ぬという事実は覆りません。ある意味絶望かもしれないし、諦めるしか無いことかもしれません。その現実に直面した時に、人はどのように受け入れ、接することができるか、そのような事を 考えさせる歌です。
まぎれもなく人生 そのものが病室で
僕より先にきっと彼女は出ていく
幸せ 不幸せ それは別にしても
真実は冷ややかに過ぎてゆく
ただしこの歌には、最後に一筋の救いがあります。
その人の生きがいというものは、自分自身が感じるものでありますが、周りの人の温かい心や、関心、ちょっとした優しさというものが形作っていくものではないか、とこの歌を聞いて感じたりします。
とはいえ、やはり、母に届けたい曲は、この曲だったように思えます。
母の人生も、長い坂を、一人向かい風に逆らって歩いて行くような人生だったように思えます。
その中で、日々明るさを失わず、強く生きてきた母。
子どもには弱さを見せないそんな母の、心の奥底にある気持ちとはなんだったのか。それは僕にわかるはずもなく、ただその心のあり方を推し量るのみです。
運がいいとか 悪いとか
人は時々口にするけど
そうゆうことって確かにあると
あなたをみててそう思う
なお、こう書いてみると僕が母親をコンサートに連れて行ったことはいい話っぽく見えてしまいますが、母はコンサートに行った日こそ盛り上がって「YouTube でさださんの曲聴きまくるわー」と興奮してましたが、一ヶ月後実家に帰ったら「ゴールデンボンバー」の曲に夢中で、さだまさしの「さ」の字すら完全に忘れていた様子でした。
ラ・ラ・ランド再考
僕は、映画を見る前も、見た後も、知ったかぶりの知識を身に着けてそれらしい論評をしようと思わないタイプの人間です。世間の評判もほぼ気にしません。
なので、前回書いた記事も、前提知識がほぼゼロの状態で見て、そのままの感想を知識を補わずにそのまま書いたものです。
なので、この意見がどの程度正しくて、どの程度他の人が同じような意見を述べているのかいないのか、全然気にせずに書いているのですが、しかしこの映画については心に引っかかるところがありいろいろ記事を眺めていると、自分と同じような感想を持つ人が意外と多いのだな......と思ったりします。
無意識に自分と同じ意見ばかりを集めている、ということもあるでしょうが。
感想とは「ハリウッドの価値観が凝縮された」「スーパーリッチ層のための映画」で「(白人中心主義を強く感じさせる)多様性の無さを感じる映画」ということです。
白人のゴズリングが「ジャズをいかに救うか」について何度も語るシーンでは、アフリカ系の人々が、彼らがつくり上げた音楽をバックで演奏している。ゴズリングのジャズピアノやストーンのジャズダンスだけに焦点を当てるシーンがいくつもあることは、時に人種差別的であるように感じられる。
ジャズやミュージカルについての映画にもかかわらず、アフリカン・アメリカンや性的マイノリティの人々をないがしろにしていると、さまざまな音楽家たちに批判もされている。いまの時代に観るにはフラストレーションが溜まるのだ。
『ラ・ラ・ランド』は“白人化された”作品だ。作品は楽しく、エマ・ストーンは素晴らしく、勢いのあるミュージカルやセットデザインは見ていて気持ちがいい。しかし、ジャズについての映画にもかかわらず、アフリカン・アメリカンには焦点を当てずに、白人の主人公2人に偉そうにジャズ文化を語らせているのは褒められたものではない。とはいえ、この映画はアカデミー賞では評価されるだろう。なぜならハリウッドは、ハリウッドを描く映画が大好きだからだ。
WIREDの中の人は、この映画についてかなり腹に据えかねているらしく、こんな記事も書かれていました。
記事のタイトルは「擁護」と書いていますが、その記事のタイトルが「why we hate this movie」となっており、いっさい擁護をする気が無い様が伺えます。
つまり、「あえて」マイノリティを後退させ、そのなかでライアン・ゴスリング演じるセブに「ピュアなジャズの死」を語らせることで、かえって「後退化させられたマイノリティ」に注目が行く。そうすることでチャゼルは、ミュージカルの世界を称揚しつつも、その一方で「白人優位」だったミュージカルの世界をも批判するのだ。そして、さらなる拡大解釈が許されるのであれば、そこには、いまなお続く、白人、そして男性優位のハリウッド社会への批判までもが含まれている。
そんな馬鹿な、と苦笑せざるを得ない文章になっています。どう考えても褒め殺し、言いたいことは真逆の反対であると万人に思わせる文章になっています。
個人的には、以前「アメリカンスナイパー」を見たときにも同じような事を感じたのですが、日本人には、少なくとも僕には、「ラ・ラ・ランド」が描く世界の意味と、その影響について、アメリカ人ほど正確に理解することは難しいように思います。
映画作品がもたらした世論の盛り上がりから、この映画の時代的な必然や意味を考える、くらいが僕に出来る関の山かな、と思います。
そして、これだけ話題が紛糾するという事実だけを以ても、この映画が本年を代表する映画であるのは間違いないようです。
本作へのあらゆる批判が的外れに聞こえるのは、まさにそのためだ。自分で見出した自分への共感を人様にあれこれ言われる筋合いはない。まして「ポスト・トゥルース的だ」などという批判に甘んじることもない。そもそも「夢」や「愛」は、「ポスト・トゥルース」なんて言葉が生まれるはるか昔から「ポスト・トゥルース」的な何かだったにちがいない。『ラ・ラ・ランド』は、そう、甘くささやきかけている。
飲みニケーションについて
その国の言葉で書かれたニュースサイトの記事を読み合わせ、簡単に内容をまとめ、議論をする、というような語学レッスンを定期的に行っています。
その場で、今回のテーマは日本の「飲みニケーション」になりました。
議論というよりは、サイトの記事の内容、もしくは先生に指摘された内容が印象的だったので、記録として残しておきます。
- 日本人は仕事の時間の後も、半強制的に職場の飲み会に参加して、家族や友達との時間を大事にしないのはなぜなのか?
- お酒に弱くてすぐ顔が赤くなる人に対して、面白がってお酒を飲ませ続けるのは、いじめ・パワハラではないのか?
- 飲みニケーションと言うけれど、お酒の力を借りて気持ちが大きくなって始めて本音で語り合えるって、子どもじゃないんだし、もっと普段から自己主張したほうがよいのでは?
- そもそもお酒は健康に悪いのに、なんでこんなに皆飲むのが好きなのか。日本人は健康志向ではなかったのか?
上記の指摘に対して、論理的に日本人の立場を弁護して回答できる人は、どの程度いるのでしょうか?
古くから残る因習、悪習が、そのまま指摘されており、これらは日本人の美徳として捉えることも無いのではないかなと思ったりします。
お酒の良し悪しは別として、お酒を前提とした、会社の中でのコミュニケーションというものはどこまで必要なのか、いろいろと考える良いきっかけにはなりました。
特に個人的には、お酒の健康に対する貢献が限りなく期待できないという研究成果もあり、そこまで平日になんども常飲するものでも無いだろう、と思ったりしています。
しかし、人の手をかけたワインやウイスキーのように、本当に芸術としか形容できない芳醇さに出会うと、お酒の文化というものは廃れないでほしいなという思いも同時にあります。
日本☆地域番付
こんなサイトを見つけました。国勢調査の結果をベースに、いろいろな指標や数値をもとに、全国の市区町村をランキングしているサイトです。
イメージ通りの結果もあるし、固定観念が覆るようなデータが出ているケースもあり、見ていて飽きないです。
財政力指数番付
市区町村の収入を支出で割った指数で、数値が多いほうが自治体の財政が豊か。
ダントツの一位になっている愛知県の飛島村はとても有名な「豊かな村」ですね。
飛島村も含め、財政力指数は概ね以下の要因が満たされると高くなるように見えます。
飛島村は1ならびに2、泊村は泊原発があるので 1、山中湖村は自衛隊の演習場があることが要因として大きく1、といった感じのようです。
財政力指数が見た目高く見えても実際は国に大きく依存している自治体が多い中、軽井沢や箱根、浦安といった箇所は「3」の要因で上位に位置しており、本当の意味で街の財政競争力があるのはこういった自治体のように見えます。
裕福な街、神栖市
比較的知名度のある自治体が多い中、茨城の「神栖市」という聞きなれない自治体が上位に位置しています。
ここは、鹿島工業地帯の中心地帯で、日本でも重要な港湾都市として重要な拠点のようです。
茨城県の端に存在し、鉄道路線が市内に一切存在しない(貨物路線のみ)ため僻地に見え、「ここにはどうやって行けば良いのだろう...,?」と東京に住んでいると思ったりしますが、調べてみると1日に100本近い高速バス路線が走っており、高速道路網も整備されているため、東京から1時間半くらいで結ばれるなど首都圏との結びつきが想像以上に強い環境であるということは発見でした。
しかし良い側面だけではなく、犯罪数が茨城県の中でナンバー1であったり、おそらく工場の出稼ぎ工としてブラジル人の比率が高かったりと、街としてアンバランスな側面も見て取れます。犯罪率の高さは、そもそも神栖市に警察署が存在しない(!?)ことも原因としてはありそうです。なお現在誘致を進めているとのこと。
外国人比率
様々な要因によって日本も外国籍の方が増えてきているようです。ということもあり、その地域に居住している外国人の統計についても上記サイトでは記載されています。
特に、人口の多い、中国人、韓国・朝鮮人、ブラジル人については特に抜き出して記載されています。
こちらは、中国人の比率が高い市区町村ランキングです。
一般的なイメージだと横浜など中華街がある街に人口が多いと考えがちで、実際多いのですが、ダントツの一番になっているのは長野県の「川上村」という聞きなれない村。
この村、ブランドレタスの産地として有名で、「平均年収2500万円」を謳っているようです。
しかしその実態は、12% 超えという他では見えない尋常でない中国人比率を見てもわかるように、大量の格安の労働力......技能実習制度という名で大量の中国人を非人道的な環境で労使することによって支えられている、ということのようです。
「風評被害」という声もあるようですが、中国人労働者も皆 2500 万円の収入を得ていることを証明できれば、自治体も風評被害の噂をかき消せると思います。皮肉です。
このように国の統計により明らかになる圧倒的に突出した人口バランスからも、尋常な環境ではないことは想像できます。
川上村以外にも、大都市というよりは地方の、ある意味僻地と言えてしまうような市区町村で外国人の比率が高くなっており、この国の今の姿がうっすらと浮かび上がっているようにも思えます。
という感じで、見てて飽きないサイトなのでなかなかの時間泥棒になってしまいますが、こんなふうに探すと日本の行政も面白い情報をたくさん発信しているのだな、と思ったりしました。
ラ・ラ・ランド
「ミュージカル映画、結構好きだよ」という一言で、封切り直後に見に行く事になったこの映画。
鑑賞後の感想は、いい映画だな、と思う反面、これは誰向けの映画なんだろう?と感じさせる映画でした。
基本的には、ロサンゼルスを舞台に、スターを目指す若者たちの青春映画で、ハリウッドを中心としたショービス賛歌な映画。最初に提示されたプロットを 1mm も外さない予定調和で単調なストーリーもあり、数々の映画の名シーンをオマージュしたと思われる演出の妙を楽しめる「ハリウッド映画大好き」の「映画上級者」の人でないと心の底から楽しめない映画なんじゃないかな、と感じました。
少なくとも、日本人の一般市民の僕には、この映画に感情移入をするというのは、かなり難しいのではないか、というのが正直な感想です。
そんな感想を抱いて映画館を後にしたあと、こんな映画批評を見かけました。ああ、同じような感想を抱く人は、他にもいるんだな、と。
映画は嗜好品なので、皆が自分たちの価値観で好きなように楽しむのが良いと思います。なので僕は「ラ・ラ・ランド」はあまり楽しめませんでしたが、この映画を楽しむ人もいて然るべきだと思います。
トランプ政権成立後「アメリカ社会の分断」が叫ばれる中、その分断を作り出している張本人の一翼であるスーパーリッチ層の価値観だけを詰め込んだこんな映画が過剰に熱狂的に取り上げられるのは、そういう時代を写している鑑であるという言い方もできるのかもしれません。
同じミュージカル映画であれば、個人的には、今の時代にこそ「ヘアスプレー」のような映画が求められても良いのにな、と思います。
太っている人、黒人、そして同性愛者(主要役柄でそういう役を演じている人は居ませんが、あえていろいろ噂のあるジョン・トラボルタに女装をさせるあたりが非常にあざとい感じ)などなど、マイノリティと称されがちな人々が抑圧されたものを解放して主役に躍り出る「You Can't Stop The Beat」の爽快感は、比類なきものです。
僕は、特定の人たちの価値観だけを色濃く映し出す「ラ・ラ・ランド」よりも、人々の固定観念を壊して社会が融合していく様を描いた「ヘアスプレー」の方が好きですし、世の中もできればこの映画のように多様性にたいして寛容になると良いな、と思ったりします。
べからず
最近休日の時間がある時などに図書館で詩経を読んだりしてるのですが、さすがに図書館に置いてあるものは白文ではなく書き下し文の書籍です。もちろん詩経ぐらい古いものになると日本語の解説が無いと読めないですが...
大学時代は白文で中国語として読むことが多かったので、今こういう中国の詩を書き下し文で読むのはとても新鮮な気持ちになります。
その中で、とても気になったのが「べからず」という言葉。
たとえば、周南-漢廣 の一節
南有喬木 不可休息
漢有游女 不可求思
これを書き下し文にすると
南に喬木有り 休息すべからず
漢に游女有り 求思すべからず
という感じになります。
我々現代人が「べからず」と聴いた場合、「してはいけない」という意味に捉えます。まあ現代語ではそういう意味なのでしようがないのです。
しかし、この場合は「できない」と訳します。なぜなら原文の "不可" には "できない" という意味はあっても "してはいけない" という意味は直接的には無いからです。
この書き下し文が発明されたタイミングでは、"不可" と「べからず」の間に、意味的な結びつきがあったのでしょう。しかし双方の言葉の使用の変遷の結果、細かい意味・用法の乖離が発生しているように思えます。
これから漢文を学ぶ中高生は、"不可"を「べからず」と読まなければいけない「書き下し文のテクニック」と、「べからず」の旧新の意味の乖離のような「書き下し文が発明された際の言葉の意味と現代語の乖離についての穴埋め知識」の両方が求められる、という状況に置かれていると思っています。
ひとことでいって、アホくさい感じがします。漢文の授業が嫌われる理由もよくわかります。
たとえば、中国語の "不可" については、意味の変遷は詳細はしりませんが、今でも "不可(以/能)" で「できない」という意味になり、その意味で古代と現代で大きな乖離は発生していないように思え、この詩経の一節も中国語について多少精通している人であれば変に意味を取り違えることもなく素直に読める文章です。
本来、中国語で書かれた文章なのであり、書き下し文を発明した人の工夫とアイデアには敬意を評しますが、今は書き下し文のレガシーが正確に文章を理解するための障壁になっているようにも思えます。
上記は今思ったことと言うより、僕自身も高校生のころに感じた矛盾ではあります。
以下はたわごとですが、
中国語の詩は、日本の和歌と同じように、ただ文章としてのリズム感を持っているという事以上に、実際に節やメロディに乗せて歌われていた「歌」としての側面がとても強いです。
南有喬木 不可休息
漢有游女 不可求思
の一節も
nan you qiao mu bu ke xiu xi
han you you nv bu ke qiu si
というように、同じ漢字以外でも「南」と「漢」、「木」と「女」、「休息」と「求思」、といった感じで対になる語の音律がとても似通っている、韻を踏んだ文章だと言うことがよくわかります。
しかしこれを
みなみにきょうぼくあり きゅうそくすべからず
かんにゆうじょあり きゅうしすべからず
と読んでしまうと、韻律の美しさが失われてしまいます。
意味も不明瞭になり、韻律も無視されてしまう、というのは詩の良さのすべてを削ぎ落とす作業にも見えてしまいます。
たとえばこれをひたすら音読みで読む、というのはどうでしょう。
なんゆうきょうぼく ふかきゅうそく
かんゆうゆうじょ ふかきゅうし
"不可" は「べからず」とせずに「不可」とすれば概ね原義に意味が近いですし意味も理解しやすいように思えます。そして音的にもそれなりに韻律が残されるようにも見えます。
中高生の習う漢文というのは、「その作品が述べている意味を正確に理解する」のが目的なのではなく、「昔の人がこの文章をどのように読んでいたか、そのテクニックを学ぶ」授業だと思っています。としか、好意的に捉える方法を私は持ち合わせていません。
それはそれで無意味・無価値だとは思いませんし、「国文学」の観点から何かしらのかたちで継承すべきテクニックではあると思っています。
しかし、授業で書き下し文に苦しんでいる人、僕が高校生のときに感じた上記のような矛盾にたどり着いた人には、「そんなの気にしないで、中国語で読めばいいじゃん、もしくは全部音読みで読めばいいじゃん」と言いたい気持ちです。そのほうが、素直に作品に歩み寄れると思います。
書き下し文は、軽んじるべからず。
しかして、重んじるべからず。
見えない貧困
見てました。
僕が子供の頃に直面した内容をおさらいするような内容で、なかなか他人視することができない内容でした。
剥奪指標
番組上で大きなテーマとして、「剥奪指標」(子どもたちがなにを奪われているか)という点について取り上げられており、剥奪指標には以下の3種があるとしていました
- 物的資源の欠如
- つながりの欠如
- 教育・経験の欠如
つながりについては、お金に余裕が無い家庭ではどうしても親と子の交流が不足し、結果として子どもの人間関係が袋小路的になってしまうこと。
教育・経験の欠如としては、学習塾などに通わせることができないこと、などが上げられていました。
大田区子どもの貧困対策に関する計画
剥奪指標の調べ方について、首都大学東京が中心となって東京都を中心とした地域における「子どもの貧困」調査した内容について、大田区の事例について紹介されていました。
大田区側の資料は、以下のようなものになるでしょうか?
https://www.city.ota.tokyo.jp/kuseijoho/press/release28/20161202.files/172_20161202gaiyo.pdf
子どもからみた生活の困難を子どもに対してアンケートを取る、という方法で状況を行っていました。
一例を挙げると以下のようなもの。
以下の子どもとの経験や消費行動、所有物に関する 14項目に関して、経済的な理由で与えられていないとする項目が3つ以上あると回答した世帯
①海水浴に行く
②博物館・科学館・美術館などに行く
③キャンプやバーベキューに行く
④スポーツ観戦や劇場に行く
⑤毎月お小遣いを渡す
⑥毎年新しい洋服・靴を買う
⑦習い事(音楽・スポーツ・習字等)に通わせる
⑧学習塾に通わせる
⑨1年に1回程度家族旅行に行く
⑩クリスマスのプレゼントをあげる
⑪正月のお年玉をあげる
⑫子どもの年齢に合った本がある
⑬子ども用のスポーツ用品・おもちゃがある
⑭子どもが自宅で宿題をすることができる場所がある
剥奪指標の高い子どもは、自己肯定感や将来への希望などが持ちにくい、という話もされていました。
生活費をバイトで稼ぐ高校生
高校生になるとバイトでお金を稼ぐことが可能になるため、子どもの貧困が見えなくなる、というお話がありました。
番組上の例では、週四日働き、月7万円程度の金額を稼いでいる女の子の状況が紹介されていました。バイトがきつくて、学校を休んだり、勉強に身が入らないという状況も紹介されていました。
進学にかかる費用
貧困家庭でなくても、家にお金の余裕がなく、進学を諦める、もしくは奨学金や教育ローンなどで借金をして大学進学を目指す、という人についても触れられていました。
学校の成績がトップクラスだという女の子が、お金の工面に困り、先生に相談したところ教育ローンを紹介され、自分の将来を案じて崩れ落ちる、というシーンもありました。
僕の所感
以下は番組内容をうけての僕の所感です。
自分の境遇から。僕は父親がギャンブル狂で、外ではパチンコに生活費の多くを費やし、家では酒ばかり飲んでいる、という人でした。母親はそれにくらべてしっかりして、とても我慢強い人で、その御蔭で家庭はかろうじて崩壊することを免れていたきがします。とはいえ僕が高校生の時に離婚してしまいましたが...
そういう事情もあり、小学生に対する上記14項目のアンケートについて、3つ以上当てはまれば「剥奪」されている子どもということですが僕はまさにそのような子どもだったようです。そして高校入学と同時にバイトを週3~4程度で始め、学費とか生活費などを自分で払っていました。母親の目が届いていればそのようなことは絶対させなかったのでしょうが、当時は毎日のように父母が喧嘩をしていて、無政府状態だったので...
とはいえその状況を以て自分自身が恵まれてないかわいそうな人だ、と当時思っていたかというとそうでもなく、それなりに日々明るく生きていたような気がします。
「剥奪された」という感覚も、あまりなかったような気がします。
この番組に描かれていたような内容、そしてもしかしたら僕のような境遇、が良いこととは思いませんが、以下のような事を感じてしまいます。
情報が多すぎるのではないか
僕の時は、今のようにネット上に情報が遍く存在しているような時代ではなかったので、様々な情報を手に入れることは難しく、結果、自分の立ち位置というものを正確に理解することはできてなかったように思えます。その結果、絶望もしませんでしたし、かなり今から考えると楽観的に過ごせていたように思えます。たとえ根拠の無い自信だとしても。
今は、スマフォがあれば、いくらでもインターネットのリソースにアクセスできて、自分の境遇について正確に理解できてしまうのかもしれません。ネット上の真偽不明の噂話に心をざわつかせることも多いかもしれません。
情報が多すぎると、自分で考える範囲が狭まり、多くの選択肢から「より正解に近い」選択肢を選ぶ作業に終始してしまう気がします。その結果、「貧困は良くない」という価値観に触れることで、自分が貧困に置かれていることに極端に負い目を感じ絶望してしまうこともあるかもしれません。
見えない貧困と言うが、もともと見えてない、もしくは見る気も無かった世代がいたのでは
僕自身ももしかしたら今回のNHK特集が定めるような「貧困」の定義に当てはまっていたのかもしれませんし、正直僕よりもさらに辛い境遇に置かれているような人も中学生の頃には同級生にいたりしました。
しかし、彼らや私に当時の教師や行政が手を差し伸べていたかというと、そのような事は一切なかったように思えます。
今でもよく覚えているのは、大学進学時、僕自身の学力ならもっとずっと偏差値の高い、誰でも知っている有名大学に行ける状況だったのに、学費などの関係で水準をだいぶ下げて大学を選ぶことになりました。もっともその直前まで高校卒業後にすぐ就職をする算段をしていたので、それに比べれば大学に行けるだけでも幸せだと思ってました。
その状況を知った担任教師は僕に「もったいない」「馬鹿じゃないの」とだけ投げ捨てるように僕に言い放ちました。
「じゃあ、僕に学費出してくれるの?金銭的な援助をしてくれるの?」と聞きたかったですが、無駄なので適当にその場はあしらいました。
今は相対的に昔より日本が貧しくなり、その結果「貧困」の枠にはまってしまう人が増えてきたから、こうして社会問題化されているという側面があるとは思います。しかしその状況は、昔から存在し、そして昔は見て見ぬふりをしていた。
そういう貧困層が当時は少なかったからかも知れないし、その当時は国にお金があって国民負担が少なくてすんだから困らなかったからかもしれないし、「自助努力」の一言で片付けられる時代だったかもしれません。
その当時に親だった世代の人のそのような感覚や経験値が、今や社会の上層にたどり着いた、もしくはリタイアして悠々自適の生活をしている人たちの感覚なのではないかと思っています。なので、行政的な改革もなかなか進みづらいのでは無いかと思います。
(絶対に、自分たちの福祉を削って、子どもたちに回せ、というような発想にならない)
真の貧困はどこにある
僕が自分自身を貧困と感じなかった理由を箇条書きで挙げると以下のようなものかなと思います。
- (ある意味余計な)社会についての常識やあり方を教えてくれる大人の欠如
- 母親の愛情
- 自分自身がお金をかけてもらってもないのに勉強がそこそこ出来た
- 都心近くに住んでいた
家にはお金は無かったですが、幸いにも中学生のころまでは母親の愛情を常に感じることのできる環境で育ったため、何を買ってもらわなくても、どこに連れて行かれなくても、寂しさを感じることは特にありませんでした。
そのことをあげつらう意地悪な大人があまり周りに居なかったことも、幸せだったような気がします。
そして、都心というか川崎市の北部ですが、電車でどこにでもアクセスできる便利な場所に済んでいたので、お金はなかったかもしれないですが能動的に様々な経験をすることができる環境だったのが大きい気がしています。大学進学後も半分くらいの期間は自宅から通うことができたので、金銭的負担も限定的にすることができたのも大きかったです。
地方都市や、農村部で、貧困と呼ばれる環境に置かれた場合、その子どもを救済する手段はどの程度残っているのでしょうか?
行政にも金が無い、様々な情報を体験するためのアクセス手段がない、とした場合、地域で支えるにしても大人もおらず老人だらけ、かつ老人に「金を回せ」という声が大きい。
家庭の問題と捉えすぎ、家庭でなければ行政の問題だと捉えすぎ、子どもたちに遍く普遍的に提供できる社会インフラについて目があまり行っていないように思えること、都市部と田舎の格差にあまり目が行っていないように思えることに、若干不安を感じてしまいます。
この辺のテーマは非常に幅広いので、 全体的に網羅するのは大変ですが、僕個人が気にとまったところだけ散文的に記載しました。