勘違い課長
広い意味で、東洋経済の宣伝記事です。
とりあえず当記事で紹介されていたこの人の本は買ってみました。本の方は会社全体にについて語られていて、課長についてだけ書いている本ではなかったです。
生きている会社、死んでいる会社―ー「創造的新陳代謝」を生み出す10の基本原則
- 作者: 遠藤功
- 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
- 発売日: 2018/02/23
- メディア: 単行本
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ここでは、Web記事に書かれている内容だけ抜粋します。
「なんで俺が最近まで居た会社のこと知ってるの??」と思うくらい、組織的に「死んでいる」会社のことを紐解いているな、と感じたので。
【1】「机にしがみついて」ばかりいる
創造や変革を生み出すためには、まず「現場に赴き、観察する」ことが必要不可欠である。
(中略)
しかし、「死んでいる会社」の課長は現場に行こうとしない。「管理職になったのだから」「会議が多いから」という都合のよい理由をつくり、「机にしがみついて」いる。
「リアリズムを感じ取ることができる」という、課長ならではの最大の強みを自ら放棄してしまっているのだ。
課長だけでなく経営の中枢にいる人でも、組織の「リアル」をいかに直感的に把握できるかはとても大事だと思います。優秀な上司ほど、その組織がどのような状況になっているか、誰でも意識出来るような仕組みづくりを心がけると思います。
それをせずに、本記事の表現でいうと「机にしがみついて」いる人というのは、概ね以下2つの特徴があると、僕は思います。
- 自分の能力に自信が無い。
- 上司の顔色ばかり伺っている。
現場では能力が通用しないし、上にも上がれる力もない、そんな人が課長になると、現場は不幸しか生まれません。
【2】「会社の常識」から決して外れない
「死んでいる会社」の課長ほど、リスクをとらず「会社の常識」の枠を超えるようなことはしない。知らぬ間に「会社の常識」に毒され、これまでの基準を当てはめて考えることしかできなくなっている。
しかし、日本企業は大きな地殻変動の真っただ中にいる。リスクをとらないことが最大のリスクなのである。
僕が遭遇した現場だと、イケてない会社ほど本当にこういう人が多い印象があります。
自分が決めたわけではない、誰かが決めた慣習やルールを「守る」ことが仕事だと思っている人。守り続ける事が偉いことだと勘違いしている人。
でも、多分その慣習やルールも、最初に始めた人は試行錯誤の過程の中で苦し紛れで始めた可能性もありますし、方向性を変えずともつねにブラッシュアップしてより無駄がなく効果的な方法にマイナーチェンジしていくことが求められます。
そして、どのような慣習もいずれは形骸化するため、それをDisruptする人、というのもとても価値があります。
部下にはおいそれとできず、課長にこそできることは「既存のルールをいったん「なかったコトにする」」もしくは「なかったことにできる代替案を積極的に登用する」ということなのかなと思います。
この、「なかったコトにする」ということができない上司の下につくと、いつまでもメンツのためだけに無駄なことをやらされがちです。
【3】「見栄えのいいプレゼン」ばかり気にする
いくら独創的な発想が生まれても、チームや組織が理解し納得して動かなければ、「絵に描いた餅」で終わってしまう。実践しなければ、成功にはつながらない。そのためには、相手を説得するための「伝える力」が必要である。
しかし、「死んでいる会社」の課長ほど体裁ばかりにこだわり、「見栄えのいいプレゼン」をしようとする。いくら体裁や見栄えを気にしても、説得力は高まらない。
(中略)
「事実」に裏付けられた主観、そして情熱ほど説得力の高いものはない。
上司に対して色良い報告ができればそれで仕事は終わり、という考えの人が結構多い気がします。
実態はどうであれ「このようなビジョンで行動を「したいと思います」」とか、頭で思いついただけの絵空事を言って終わり。それがうまくいくかどうかをハンドルするのが現場でリーダーシップを取る人の責務なのに、口に出せばそれで仕事が終わりと思っている人が非常に多い気がしています。
これは、そういう「口だけ」「声出しだけ」を評価して、実態を理解しようとしない、課長以上の人たちのリーダーシップの問題であることが多いのかな、とは思っています。
【4】「目立つ行動」は起こさない
「はみ出る」行動は、社内で目立つ。創造や変革を成し遂げようとすれば、目立つのはやむをえない。しかし、それによって社内の壁を超えた理解者や共感者は増えていく。
一方、「死んでいる会社」の課長は「目立つ行動」は起こさない。対立を避け、衝突することを怖れている。
理解者、協力者をつくることよりも、反対者を気にし、誰かに反対されるとすぐあきらめてしまう。それでは、創造や変革を成し遂げられるはずがない。
僕の「名目的な」上司はまさにこんな人でした。
一番びっくりしたのは、僕よりも社歴が数倍ながく、管理職的な立ち位置のハズなのに、組織の中で知り合いが僕よりも少なく、社内の情報についても疎かったことです。
そうなった最大の理由は、いっさいの「情報発信」を社内でしなかったこと。
何か変えたいと思った時に、自分がどういう人間で、どうしていきたいかを表明するのは、非常に合理的で効率的な手段だと思います。
一方、その内容について粗探しをされたり、能力を見定められたりということも起こりえます。
でも、そこを怖がっていては皆と仲良くなることもできないし、組織横断で皆が仲良くならないと変えるものも変えられないと思います。
そういう行動をせずに、目立たないようにする理由は、基本的には自分に自信が無い、会社でやりたいことが無い、ということに尽きると思います。
【5】「妥協」ばかりして目標が定まらない
チームが結束して進んでいくには、課長が「ぶれない軸」を持たなければならない。新たな未来を創造しようとするのであれば、確固たる信念がなければならない。
ここは捉え方が難しく、僕は完全に同意するわけではないです。
とはいえ、物事が決まらない時に、立ち位置として監理する側の人が最後はものごとを決める決断をすべきだと思います。決断するためには、様々な事を勉強して力をつけないとできません。
力の無い人が上に立つと、自信が無いがゆえに何事も決まらない、というのはよくある風景な気がします。
【6】安易な「低い目標」で満足する
「やるだけやったのだからしようがない」「理解がない上司だからあきらめよう」と安易に掲げた「低い目標」で満足してしまう。戦いもせず、楽な選択ばかりをする課長たちばかりの会社に、未来があるはずもない。
これも、結局能力が無い人が上に立ったがゆえの不幸でしかないかなと思います。
結果的に、現場に近い場所でリーダーシップロールを努めるためにはなにが必要なのか、この記事では「ミッション・マネージャー」と書いてあり、そこは非常に同意するところがあります。
ただ日々の業務をこなすことだけでなく、数年後我々がどうなるべきか、組織が、世の中がどうなるべきか、そんなところまで落とし込んで行動に移す人のほうが強いですし、遠くへたどり着けるように思います。
そういう、未来へのビジョン、ミッションが不足している組織では、たとえ優秀な人が入社しても、すぐに立ち去って行くことが多いように、思えます。
人生で失ってはいけないものは何か
最近、ここ数年、自分が年齢を重ねていくのに合わせて、「尊敬される老人になるにはどうしたら良いのだろう」と考える事が多くなりました。
老人と呼ばれる年齢になるにはまだかなりの年数がありますし、体の弱い自分がそんな年まで生きられるだろうかという思いもあります。とはいえ、目指すべき道筋というものは考えておいて損は無いだろうという思いからです。
いろいろ頭の中で考えてみました。
年月を重ねれば経験や実績を積むことは出来るわけなので、「多くの経験をしている」というのがキーワードになるかなと考えました。
もちろん長い時間生きてきた結果知ることが出来る世の中の理や普遍性もあると思いますが、世の中は常に変化を続けており、特にいまの時代は変化が速く、過去の成功体験が逆に足かせになって新しい発想ができなくなったりします。その結果、「老害」などと罵られてしまうこともあるのかなと。
「お金を持っている」。これもあるのかなと思ったりもしました。「衣食足りて礼節を知る」という言葉もありますし、余裕が生まれることによって尊敬にたる行動を人が取るようになるかもしれないなという思いからです。
日本は、バブル崩壊前に資産を築くことができた「逃げ切れた」世代の人たちは僕たちのような若者に比べ相対的に多くの資産を持っています。
では町中を歩く彼らの姿を見て尊敬できるかというと、、。お金を持っているはずなのに、ちょっとした子供の振る舞いに対して悪態をついたり、列にも並ばなかったり、自分ばかりが良い思いをしようとやっきになったりと、とても尊敬に足る行動をする人を見かけることは少ないです。伝記漫画や小説の中で見るような、後進の育成に力を注ぐような老人が本当に最近は少なくなったように思えます。
一応、ひとまずの結論として、老人になったときに尊敬されたいと思うのなら、「品」を身につけるのが良いのかな、と考えた事があります。
「品が良い人」とはどういうことか、定義は難しいですが、個人的には「不必要に相手の感情を刺激しないような作法を身に着けている人」と認識しています。
いつでも相手の感情をうまく推し量って理性的な対応ができ、食事や挨拶など様々な所作が流麗で無駄がない。
確かに、品が良い人になる、というのは、人生の目標に掲げるに足る目標だなと思います。
ここまで考えたのですが、それでも自分の心にしっくりくることがなく、そもそもテーマの設定が間違っているかも、と思い直しました。
小さい子ども達のほうが、おじいさんおばあさんよりも礼儀正しいことが多いのはなんでだろう。
お金を持っている人の行動が不遜になりがちで、お金に無頓着な人のほうが人生を謙虚に生きているのはなぜだろう。
なぜ経験もあり、お金も持っているはずなのに、品を身に着けられない人が多いのだろう。
僕は、年月を重ねるごとに、何かを得ることができる、何かを身につけることができる、と勘違いしていたのかもしれないな、と思いました。
そうではなく、「本来は誰もが持っていたはずなのに、慣れや慢心、驕りによって失われていくのではないか」「本来持っていたはずのものを失った人はみすぼらしく見え、失わないで居続けている人のことが眩しく見えるのではないか」という風に、最近は思い至りました。
多くの人が皆持っていて、そして年月を重ねるごとに失ってしまうものは何か。
僕は「良心」だと思います。
最初は皆謙虚に生きていると思います。別にこの世に生を得た瞬間から他人を傷つけたいと思って生きている人はいないでしょうし、大人になっても大半の人は自分の人生と他人の人生の安寧を祈って慎ましく生きています。
目の前で傷ついた人、困った人がいれば、本能的に「助けたい」と思い、ささやかでも行動をするでしょう。すでに十分に困っている人には、それ以上困らせようと意地悪をすることも無いはずです。
その気持ち、子供のころから持っていたはずの根源的な反応が「良心」なのだと思います。
それでも、分不相応な「力」を手に入れることで、勘違いをし、その勘違いに慣れた結果、自然と良心を手放してしまう事が多いと、感じています。
概ね資本主義の世界では、「力」とは「お金」であり、お金を生み出す装置としての会社の「役職」だったりします。
たとえば、ある日突然分不相応に多くのお金を手に入れた結果、それらを「運」「めぐり合わせ」ではなく「自分の実力」と勘違いし、結果として「運を手に入れてない人」の事を下に見るようになったりします。
お金を手に入れることで、お金によって多くの物事が解決できるようになり、自分の意図通りにいくのが当たり前という発想になったりします。相手がどのように考えているかとか、どんな状況におかれているかなど全く無頓着になり、自分の私利私欲を満たすことがけを考えがちになります。
世の中は自分の意図通りいかないことばかりなのに、うまくいかないことがあると過剰に当たり散らしたり他人の責任にしたりしてしまいます。
お金だけでなく、会社における職位、ポジションでも同じ事が言えると思います。能力もないのに、たまたま会社組織のルールでそのポジションにつくことができた人が稀にいますが、そのポジションに固執する人はたいてい良心を捨てます。
その職位についていることだけを以て「自分は特別だ」と勘違いし、ふさわしい能力を身につけるための努力は怠り、分不相応のそのポジションを手放さないよう良心に反する行動だけを取り続けることがあります。
そして、良心というのは、感染するものだと思います。いい意味でも悪い意味でも、特定の人の行動が他人に伝搬します。
良心をなくした人が、正義に反する事…自分たちの利益のために嘘をついたり、人を騙したり、さしたる理由もなく気に入らない他人を陥れたり、自分の感情の赴くままに好き勝手に行動したり…繰り返しを行っていても、意外と人は「それはいけないんじゃないか」と声を上げることができません。
どこかで誰かが苦しんでいたり、ひとり辛くて涙を流している人がいても、自分には関係無いと無視を決め込んでしまいがちです。
今の日本の社会が、そのようになっているように思えます。
良心を以てそういう人たちの手助けをしようとしたり、意義を唱えるような人もいます。しかし今の日本社会では、そういう正義感を持っている人ほど周りの「良心を失った大人たち」の利害に反すると力で潰されてしまいます。そういう様をを目の当たりにすることで、自分の身を守るために良心を削り落としていく事もあると思います。
良心を失った人がお金や権力を持っている場合、その人の「おこぼれ」を手に入れるために、積極的に歓心を買う行動に出る人もいるでしょう。歓心を買うためであれば、おこぼれをもらうためにその人も良心を失った行動を取ります。
そして、周りの人たちのそういう行動に慣れすぎた結果、多くの人が、心の中にあった良心を削り落としてしまい、結果として良心をなくしてしまった人たちと同じような行動をするようになってしまいます。
孟子は、「性善説」を唱えた人として人口に膾炙していますが、良心についての記述が告子編に多く見られます。
人性之善也、猶水之就下也。人無有不善。水無有不下。
人間が善であるということは、水が低きに流れるのと同じくらい当たり前のことだ。善でない人間はいないし、低きに流れない水もない。
養其一指而失其肩背、而不知也、則爲狼疾人也。
指に気を取られ、肩や背中を失い、それに気づかない人は、すなわち「狼疾」の人だ。
我々は何かを積み上げようと考える前に、まず、いま掌にあるはずの「良心」を手放さないよう、日々努力をしていく必要があるのかな、と感じています。
そして、良心は、今の日本社会では、「お金」を手に入れることで、容易に失いやすいな、と、実際に良心をなくした多くの人に接した結果、個人的には確信をしています。
お金という力を手に入れてもかつ良心を失わない、これこそが現代社会において、最も達成が難しい「品」のある振る舞いなのかな、とも思っています。
ダイナースプレミアムカードを2年使い続けた結果解約した話
お金周りの話はほとんど書かないのですが、まあ解約してしばらく経つので良いでしょう、ということで。
ダイナースカードは知る人ぞ知るという感じのクレジットカードで、一応日本で最初のクレジットカードブランドという事のようです。ロイヤリティの高いユーザーに支えられ、カードの付帯サービスも比較的充実している、どちらかというと高級路線に位置づけられるクレジットカードです。
無名のノーマルカードでも、世間的なクレジットカードブランドの「ゴールドカード」と同等以上のサービスの豊富さを持っています。
ダイナースプレミアムカードは、プレミアムという名が付けられているように、ダイナースカードの中でもランクの高いカードです。いわゆるブラックカードの一つ。基本的にはダイナースカードを使っている人が所得や使用内容などの一定の条件を満たすとインビテーションが送られてくるようです。
ちなみの、ノーマルなダイナースカードが年会費22000円、プレミアムカードの年会費は130000円です(ともに税抜き)。
加入した理由
ノリです。
もともとダイナースユーザーだったところ、インビテーションが送られてきたのでプレミアムカードに変更しました。
年会費が高いカードに対する憧れも特になかったのですが、「目の前に選択肢が有った時、面倒くさそうだな、と思う方を選ぶ」のが私の身上なので、こういうブラックカードを所持することで生活がどのように変わるのかを試してみたかった、というのが動機です。
年会費が高いカードに意味はあるのか
クレジットカードとしての機能にそれほど大差が無いのだから、年会費が高いカードを所持するのは無駄だ、という人もよく居ます。
人により価値観が異なるので一概に言えませんが、個人的には所有する価値が「ある」と思います。
ダイナースプレミアムカードには公式に謳っている様々な特典がありますが、意外と「裏」特典的なものがお店やサービスによっては受けることができます。その恩恵を受けたため、高い年会費の元は少なくとも取れたな、というのが利用してみた実感です。
裏?も表も含めて、個人的に良かったなと思ったのは以下。
乗馬クラブクレインの優待
公式にも、プレミアムカードが提供している優待として「全国のクレインに年間4回体験乗馬できる」というものがあります。
それ以外に、クレインの中でも場所によるかもしれませんし、常にというわけでも無いかもしれませんがが「体験乗馬を返上していただければ、入会金等々格安にサービスします」と計らいを受けることができる事も稀にあるようです。
私はその幸運に恵まれ、カタログ価格から比べるとかなり安く入会することができました。これだけで年会費の大半が元が取れました。乗馬に興味が無かったり、入会の意思が無い人にはどうでも良い事ではありますが、僕はたまたま恩恵を受けました。
ホテルのアップグレード
たとえばホテルニューオータニは常にベストレートで宿泊できますし、僕は100%の確率でお部屋のアップグレードをしていただきました。高いホテルよりも東横インの方が個人的には好きですが、やむを得ず宿泊した際に計らいを受けることができるとそれなりに嬉しいものです。
公衆Wifi接続サービス
これは公式にアナウンスされているのを見たことが無いですが、一時期、docomoやwi2などの公衆Wifi接続サービスに無料で接続できるバウチャーがとある方法で提供されていた事があります。毎月正規で契約すると1000円前後はかかるため、これが無償で提供されるのは結構美味しかったです。
なお、現在はこのバウチャーは提供されているようには見えません。
エグゼクティブダイニング
ダイナースカードの代表的な特典で、優待対象のレストランのコースを2名以上で予約すると、1名分の料金が無料になる、というサービスです。1人分の料金で2人分の料理を味わえるのですから、お得ですね。
プレミアムカード会員だと、かなりグレードの高いお店でもエグゼクティブダイニングを使うことができるので、グルメな方には嬉しい機能だと思います。
私は、「餃子の王将」で満足するタイプなのでそれほど使用はしませんでしたが、お得なサービスなのは間違いないと思います。
銀座プレミアムラウンジ
銀座の交差点の近くに、プレミアムカード会員が無料で使用できるラウンジがあります。ラウンジでは無料でWifiや、ドリンク、スイーツなどが提供されます。
これは、銀座周辺をうろちょろする人にとっては結構便利で、個人的にも無料でWifiが使えるくつろげる場所として移動の休息地として重宝しました。
まあ、なければないで特に気にする機能では無いですが。
解約した理由
というように、僕は年会費分の恩恵は受けた感触があるため特に不満はなかったのですが、プレミアムカードは解約しました。
理由は以下。
ANAグローバルマイレージの制限強化
個人的に一番重宝していたのは、グローバルマイレージと呼ばれる「ダイナスカードのポイント」と「ANAマイル」を1対1で交換できるサービスでした。
(1ポイントを、1マイルに変換可能)
ダイナースプレミアムカードは基本的に100円の買い物で2ポイント貯まるため、生活費の大半をプレミアムカードで決済していると、比較的よくポイントがたまります。これをダイナースのグローバルマイレージサービスを経由してマイルに変換することで、無料で、もしくは格安で旅行に出かけることができるようになる訳です。
このグローバルマイレージのサービスが、突如「年間40000ポイント」までしか使用できなくなったのが、今回の解約の主な原因です。(今までは年間80000ポイント)
この辺は、「ダイナース グローバルマイレージ 改悪」で検索するといくらでも記事がヒットするので、そちらをご覧ください。
ブラックカードを持っていても偉ぶることはできない
別に偉ぶるためにブラックカードを所持していたのではないですが、店員の反応がどうかわるのかは人生勉強のために観察をしていました。
基本的に、反応が変わるのはそれなりのグレードのホテルの人くらいで、大半のお店では普通のカードと反応は変わりません。ダイナースクラブのICカードはどうもお店のクレジット端末と相性が悪いのか、どのお店でも比較的決済処理がもたつくため、どちらかというと店員に毛嫌いされているように感じます。
まあ、カードのブランドなんかで皆の反応は変わりませんから、そんな事を期待して見栄でブラックカードを所持してもしようがないと思います。
送られてくる冊子が高齢層を相手にしすぎていて、何も魅力が無い。
プレミアムカード契約者には、毎月「SIGNATURE」という冊子が送られてきます。一応上品で高級な仕立てになっている本で、それなりにプレミア感のある作りになっています。この冊子のなかで、リッチなライフスタイルや、プレミアム感溢れる限定イベントの紹介などがされている、という立て付けです。
しかし中に書かれている内容が、どう考えても60歳以上を対象にしている、若い人間にとっては古臭い内容が多く、個人的には一切魅力がありませんでした。
60歳以上の人たちを相手にしているように見えるくせして、「某国民的ミュージシャン」の特別イベント(某、といっていますが、さだまさしです)みたいな案内も無く、個人的にわくわくするような魅力的な付帯サービスが乏しかったのも、解約した理由です。
さだまさしは置いとくとして、たとえばPerfumeとかサカナクションのライブの優先販売や、特別席の提供など、今風の使用者の嗜好にあうような優待があれば、今でもプレミアムカードのままだったと思います。
個人的には、SIGNATUREで紹介されていたイベントで、唯一興味を持てたのは、東福寺の特別拝観でしたね(桜の季節や、紅葉の季節に、ほぼ貸し切りで拝観できる)。こういうイベントに興味を持つ時点で私も相当ジジ臭い趣味ですが、 その僕ですらちょっと興味が持てない内容が多すぎでした。
ブラックカードを持って生活は変わったか
変わりませんでした。少なくとも私は。
まあ、クレジットカードごときで生活が変わるのは、その人の生活が味気ない証拠な気もします。
今なんのカードを使っているのか
秘密ですが、航空会社のマイルが溜まりやすいカードに変えました。
本来、自分が求めているものは「ポイントで旅行に行く」だったので、それを費用対効果的に良いバランスで実現できるカードに切り替えました。
個人的にはダイナースプレミアムカードはカードとしてそれほど悪く無いカードだとは思いますが、若者に寄り添ってない事を強く感じる事もあり、そこは今後改善してくれると良いなと思っています。
そして、僕は好奇心で契約してみましたが、カードは見栄で持つものでは無いのだろうな、と思います。意外と、皆、誰がなんのカードを使っているとか、気にしないで生きていますので。
その辺のことが肌感覚で知れたので、僕にとっては有意義な2年間でした。ありがとう、ダイナースプレミアムカード。
失敗の科学
原著のタイトルが「Black Box Thinking」なので、訳書ではもともとのタイトルとはだいぶ異なるものがつけられているように思えます。
ただ内容的に、本書は、失敗はどのようにして起こるのか、そして失敗からどのように学ぶのか、という事を主軸のテーマとしており、そういう意味で違和感はないです。
網羅的にまとめるほど本書を読み込めてないので、気になったテーマを五月雨的に書きます。
なお余談ですが、著者のマシュー・サイドは英国の元卓球オリンピック選手で、カットマンだったようです。
失敗を責め立てると、誰もが失敗を隠すようになる。
何か問題が発生したときに、起こってしまった原因を十分に究明せずに特定の人をスケープゴートにするような事をすると、皆「失敗」を恐れるようになる。
その結果起こるのは2つ。失敗をしていてもスケープゴートになるのを恐れるために、失敗を隠蔽する。そして、失敗しないように、曖昧なゴール、目的を設定するようになる。
本書では、医療事故を起こした病院や、幼児が悲運な死を遂げた際のソーシャルワーカーを例に、このエピソードが語られていました。
ソーシャルワーカーの例では、幼児が亡くなるのを防げなかった事に非があるとしてソーシャルワーカーたちが糾弾されました。責め立てる人はみな「これにより厳格で責任感をもった行動をとるようになるだろう」と信じ込んでいたようです。結果は、非難を恐れて、大量のソーシャルワーカーが退職をし、人員が足らなくなり、補うために質も低下し、結果として待っていたのは大幅なソーシャルワーカーのサービスレベルの低下でした。
失敗を懲罰的に扱うチームより、非難をしないチームのほうが、失敗は少ない
上記で触れたような話を、ある病院で人類学者の協力で調査したところ、掲題の結果が出たようです。
懲罰志向のチームでは、ミスの報告は少なかったが、実際には他のチームよりも多くのミスを犯していて、それが隠蔽されていた。
非難傾向が低いチームでは、ミスの報告数は多かったが、実際に犯したミスで比べてみると懲罰志向のチームより少なかった。
失敗をしても気にしない、対策を何もしなくても良い、ということは表しておらず、失敗が発生した時にそれを隠さず、皆で失敗に向き合い、それをなくすためにはどのようにしたら良いかを考える組織のほうが、結果的には失敗が減る、ということのようです。
上下関係がチームワークを崩壊させる
本書では、圧倒的な経験と技術を持つベテラン医師が起こした医療事故、卓越した技術をもったベテラン操縦士が起こした飛行機事故について触れられています。
どちらも、事故の予兆を周りは感じていて、「こうしたほうが良いのでは」と皆思ってはいたものの、あまりに目上の人に対して遠慮をしてしまい、強く進言できなかったり、喉の奥にしまいこんでしまったようです。その結果、本来起こるべきではない重大な事故が起こってしまったようです。
絶対的な権力者が君臨し、かつその人が融和的ではなく強圧的に物事に接するような振る舞いをする職場だと、たとえその人が明らかに間違ったことを言っていても、まわりは諌めることも能わず、結果として新卒社員でもしないようなくだらない理由でびっくりするくらいの失敗をすることがある、と警告しているように思えます。
プロジェクトの6段階
理論的ではなく情緒的な人たちによって引き起こされる、プロジェクトのたどる道のり、として以下が提示されていました。
- 期待
- 幻滅
- パニック
- 犯人探し
- 無実の人を処罰
- 無関係な人を報奨
本文ではそこまで明確に上記に基づくストーリーは記載されてませんでした。
何か期待にそぐわない事が起こったとき、何が起こったかをきちんと分析しないで行動すると、スケープゴートとなる犯人を探す事をしてしまい、結果として単純なストーリーで犯人扱いしやすい人が犯人扱いとなり、それに巻き込まれなかったり過度に非難を浴びせる人が英雄扱いされる、という事のように咀嚼しました。
日本の最近の政治ショーではよく見る光景に思えます。
固定型マインドセットと成長型マインドセット
固定型マインドセットの人は、失敗をした時に、「自分に才能がない証拠」と考えるようです。
成長型マインドセットの人は、失敗をした時に、「失敗は自分の力を伸ばす上で欠かせないもの」と考えるようです。
固定型マインドセットの組織では、失敗や、それにともなうミスや非難を恐れて、失敗を報告しない事が多くなるようです。そして、「他の社員を出し抜く行為が多い」「作業の手抜きが頻繁に行われる」「情報の隠蔽がたびたび行われる」という傾向があるようです。
成長型マインドセットの組織では、誠実で協力的な組織文化が浸透しており、「リスクを犯すことが奨励される」「失敗しても非難されない」「失敗は学習の機会でありいずれ付加価値にとなる」「革新的に考えることが奨励され、創造力が歓迎される」という傾向があるようです。
どちらの組織のほうが価値を多く生み出すかは、言うまでもないだろう、と本書では結ばれています。
選択しないという選択
選択しないという選択: ビッグデータで変わる「自由」のかたち
- 作者: キャスサンスティーン,Cass R. Sunstein,伊達尚美
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2017/01/28
- メディア: 単行本
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Web サービスやアプリなどで、使用時に選択を強いられる事は多いと思います。
その際に気の利いたデフォルト設定がなされていると便利ですが、選択肢を奪われたもしくは強制された不快感というものも同時に感じがちです。
その辺のテーマを、行動経済学で著名な筆者がまとめた書籍です。
全編を網羅的に総括するような感想は難しいですが、気になったところをいくつか。
会社の休暇の例として、二週間の休暇を得るときに、
A「二週間の休暇が得られる代わりに給与を減給する。その際に妥当な金額はいくらか」
B「二週間の休暇を返上する代わりに報酬を与える。その際に妥当な金額はいくらか」
の2つの選択肢についてアンケートを取った際、前者の中央値は6000ドル、後者は13000ドルだった。つまり、既に所有しているものについて、人は高めに価値を設定しがちであるということ。
すでに人が何かを所有するかどうかはデフォルト・ルールにより決まるため、そのルールの設定は気を使う必要がある。
選択肢にはおおむね3種がある。
- 個別化されていないデフォルトルール
- 能動的選択
- 個別化されているデフォルトルール
集団が多様でない場合、選択するとうい行為を楽しめない場合、個別化されてないルールで皆を満足扠せられる場合は1。
集団が多様で選択するという行為を楽しめる場合は2。
集団が多様で、選択が負担の場合は3が理想。
基本的には、選択という行為に対しては「選択にかかるコスト」「得られるベネフィット」のバランスによって、どのような選択肢が提供されているのが望ましいか決まるのだと思います。
ただそういう合理的判断だけではなく、その選択肢がもつ社会的メッセージ(エコを実現するためにコピー用紙は両面印刷をデフォルトに、等)も選択肢の選択には影響を及ぼす、とのことでした。
「個別化されているデフォルトルール」とはつまりパーソナライズされたデフォルト選択肢ということになります。
ビッグデータや、ユーザーの行動データの解析により、そのユーザーに最適なデフォルト選択肢を提示することができるだろうという期待値から挙げられているものかなと思います。
実際にニュースアプリは年齢や性別などのデモグラデータにより購読するニュース記事が選別されたりしますし、最近はこういう「個別化されたデフォルトルール」という選択肢も増えてきているのかなと思います。
こういう内容を見てふと想像したのは、日々の行動のすべてがトラッキングされて、購買行動や、発言、思索、その他もろもろの内容から、その人が支持すべき(支持することでその人の利益が最大化されるような)政治家や政党が自動的に峻別されて、デフォルトでその人に投票される未来です。
周りの目線やしがらみ、見栄などもあって、本来自分が投票したいと思っている人に投票しないこともあるかもしれません。もしくは、その乖離に自分が気づかないということもあるかもしれません。
上記のようにその人にふさわしい候補者への投票がデフォルトになる未来は、100%間違いなく運用できたとしたら極めて少ない労力で利得を得られるのかもしれませんが、多くの人が納得できるようになるには相当な時間がかかるように思います。
いかに不合理でも、人間が自分自身で「正しい」「合理的」と信じ込んでいる選択を能動的に行わせる、という行為自体はしばらくなくならないのではないかなと思います。
アメイジング・グレイス
さだまさしの「風に立つライオン」のエンディングは、アメイジンググレイスをスキャットで引用することで壮大な世界観を歌い上げています。
個人的に、アメイジング・グレイスは色々な方が歌唱しているのを聴いてはいながらも「どんな事を歌っているのか」についてあまり気にしていませんでした。
歴史ある賛美歌ということで、Wikipedia にも歌詞が乗っているんですね。
驚くべき恵み(なんと甘美な響きよ)
私のように悲惨な者を救って下さった。
かつては迷ったが、今は見つけられ、
かつては盲目であったが、今は見える。神の恵みが私の心に恐れることを教えた。
そしてこれらの恵みが恐れから私を解放した
どれほどすばらしい恵みが現れただろうか、
私が最初に信じた時に。多くの危険、苦しみと誘惑を乗り越え、
私はすでにたどり着いた。
この恵みがここまで私を無事に導いた。
だから、恵みが私を家に導くだろう。そこに着いて一万年経った時、
太陽のように輝きながら
日の限り神への讃美を歌う。
初めて歌った時と同じように。
基本的には神の救いを描いた歌です。
風に立つライオンの歌詞と続けて読むと、苦悩の結果、故郷の恋人を捨てるような形になりながらも、僻地医療に身を捧げる決意をした青年医師への救い、魂の開放と、それへの感謝とも受け止めることが出来る内容になっています。アメイジンググレイスのメッセージにも意味があると考えることで、より「風に立つライオン」の歌の世界が多面的に広がりを持ちます。
ただメロディが荘厳だから引用した、というわけでも無いのかもしれないな、と個人的には感じたりもしました。
1978年のさだまさし
あまりライブレポートの類は書かないのですが、さだまさしさんが「拡散して!!」とステージで仰っていたので書いてみます。
2018/03/31 に大阪のフェスティバルホール5周年イベントとして開催された、さださんのコンサートに参加しました。
タイトルは「1978年のさだまさし」。
さださんが建て替え前の旧フェスティバルホールでコンサートを行ったのが40年前(1978年)の3月30・31日。今年は立て直し後の新フェスティバルホールの5周年にして、新旧あわせてさださんのフェスティバルホール40周年、ということで記念のイベントとして開催されたようです。
この辺はツアーバンド(さだ工務店)のチェリストで、ムジカ・ピッコリーノのゴーシュとしても人気の徳澤青弦さんのインスタにも紹介されています。
このコンサートは、1978年3月30・31日に行われたコンサートのセットリストを出来る限り忠実に再現し、「曲順は少し変えているけれど」同じ曲のみを用いて実施されました。曲順を変えた理由は、コンサート終盤の演出により自ずと分かる訳です。
さださんの1978年における状況は以下のような感じ。
- ソロデビュー3年目。
- デビュー後シングル5作、アルバム3作をリリース済み。アルバムは64万枚、92万枚、89万枚と準ミリオンを連発していて既に売れっ子。
- ソロデビュー後のヒット曲はこの時点では「雨やどり」「檸檬」。今広く知られた曲を含めると「秋桜」「案山子」など。
- 「関白宣言」「親父の一番長い日」「防人の歌」「北の国から」などの大ヒット曲が生まれる前。
- そして映画で大借金をする前〜💸。
僕も正直この時代のことをリアルタイムに知るすべが無いので wikipedia などで追う以外に情報がなく実感はないですが、この頃にファンになった先輩さだファンも相当に多いでしょう。そういう方々には多感な青春時代のことが懐かしく思い出される演目なのではないかと思います。
箇条書きでコンサートの感想を書いていきます。
- バンド編成はいつもの「さだ工務店のメンバー」でスタート。
- 前半後半の二部構成。間の休憩時間は、皆歳を取ってトイレが近いだろうからと長めの15分を確保(笑)
- 楽曲は意外とさだ工務店との組み合わせで演奏済みのものが多く、私が初見だなと思ったのは「最后の頁」「夕凪」「転宅」「檸檬」くらいでした。ピアノの倉田さんとは付き合いも長いので合わせたことのない曲はないでしょう。ソロデビュー後3年以内に作られた作品群の人気の高さとクオリティの高さには改めて驚かされます。
- トークでは1978年当時のエピソードを披露。日本のコンサートツアーで初めて大道具を導入したのはさだまさしである、とさださん本人もトークでよく述べていましたが、導入したのが1978年の3月30日のフェスティバルホールでのコンサート、まさに40年前のその時が歴史的な日であったんですよと説明。
- 秋桜の作曲を依頼された時のエピソードも披露。依頼されていた事を数年忘れていて、催促されて追い込まれたため寝ずに〆切日の午前4時頃に秋桜を書き上げ、先方の担当者に電話で連絡したが、「ありがとうございます。それでB面は?」と電話口で告げられ血の気が引いたとのこと。その際に急ぎ作った曲がライブでも披露された「最后の頁」。ちなみにかなり久しぶりに歌ったせいか曲の出だしで少しミスっていました。
- 当時のトークの大ネタを思い出したら、さだ企画のみんなでスキーに行ったエピソードがあった、と、そのトークを披露。曲を跨いで30〜40分くらいかかる壮大な作品でした。
- 大ネタ中に、話が脱線して、ファミマの入店音「大盛況」にあわせて「産まれたてのさだまさし」を皆で大合唱。「次の45周年コンサートツアーのタイトルは「産まれたてのさだまさし」にするぞ」と、どこまで本気なのかよくわからない宣言も飛び出しました。
そして、何よりもこのコンサートのクライマックスは、アンコール前に宅間久義さんがサプライズ出演したことでしょう。
僕も正直、1978年の楽曲をやるのであれば「胡桃の日」をやらざるを得ないだろう。でもさだ工務店のクラシカルな編成で出来るのか?そもそも胡桃の日は宅間さんのマリンバが無いとわさびの入ってないお寿司みたいなものだろう……と悶々としていたなか、何の前フリもなく突然マリンバがステージに運ばれてきたときの興奮とまわりの大歓声はなかなか忘れがたいです。
当然、宅間さんのマリンバが加わって演奏するのは「胡桃の日」。さださんがギターの前奏をおもむろに弾き出し、皆の期待が最高潮に高まる中さっそうと宅間さんが登場し、演奏が始まります。
場内は総立ち…まではいかないですが、興奮した先輩さだファンたちが立ち上がって、僕も聞いたことがないような大音量の手拍子の中楽曲が展開されていきます。
近くのご高齢の女性が感極まってか泣き出したりと、本当に感動的で興奮が最高潮な雰囲気。
胡桃の日の演奏後、さださんが手招きして宅間さんを呼び、あつい抱擁、そしてお互いの健闘を称えるように親指をグッ👍と突き上げる姿は本当に格好良かったです。
アンコール前最後の曲は「飛梅」。マリンバ入りの飛梅はライブでは私は初めて聴いたのですが、二番後半のドラマチックな盛り上がりを完璧に表現するにはやはりマリンバが必須、この曲は宅間さんあっての曲だなと思わせます。
会場が興奮の坩堝に包まれる中、緞帳がおり二部終了。皆スタンディングオベーションで、経験したことが無いくらいハイテンポの手拍子でアンコールを煽ります。
緞帳が開け、トークもほどほどに、アンコール曲は「つゆのあとさき」。
高音が印象的な、きらびやかなメロディで人気のある曲です。アンコールで歌うにはしんどそうな曲ですが、65歳の今になってもさださんの高音の伸びは保たれ、ここ数年の中でも最近は更によく声がでるようになったのでは…と思わせる完璧な歌声でした。
これで1978年に歌った楽曲はすべて歌い終え、普通ならここで終演ですが、興奮した観客はそれを許しません。
一度ステージを降りたさださんもすぐ戻ってきて、「もうこのへんでよろしいでしょう(笑)」と冗談を言いながらも、アンコール二曲目は「主人公」。ファン人気ナンバーワンの曲をここで持ってくるか!と、さすがのサービス精神の旺盛さに感動。
最近のさだ工務店の演奏では弦の美しさを活かすアレンジで演奏されていましたが、今回は昔ながらのアレンジ。
主人公終演後、バンドメンバー、宅間さん含めステージ最前列に整列して、カーテンコールの挨拶。
このときに「今日は特別だよ〜、スマフォで撮影して良いよ〜」「撮ったら SNS とかで拡散するんだよ〜」との発言。他のミュージシャンでは珍しくないですが、さださんもこんな事するんだ、と驚きました。
僕のこの記事も、さださんのその発言を受けて書いてます。
先輩さだファンの方々も我先に携帯取り出して写真を撮りだし、撮影に夢中。「カメラを構えていると、拍手が無いことに気づきました。寂しかったよ。(笑)」との発言にまた爆笑。
皆がステージを降り、緞帳が降ります。
さすがにもう終演でしょう、こちらももうお腹いっぱいですよ、と思う中、興奮した先輩さだファンは一切帰る気がなく、また大音量の手拍子とともに「アンコール!アンコール!」の大合唱。
かつて、数年前に、こんなインタビューを語っていたさださん。
もし出ていく前に拍手が鳴りやんだら僕はそのまま帰る。逆にアンコールをやって、まだ拍手が鳴りやまなければ、また出ていく。で、もういいよね、って思いながら袖に引っ込んで、まだ拍手が鳴りやまなければ、また出ていく。
こんな事言っちゃったんだから、この盛り上がりの中、出てこないわけにはいかないでしょう。観念したかのようにステージに戻ってきたさださんが、宅間さんを引き連れて演奏したアンコール三曲目は「雨やどり」
この写真はその時のもの、演奏開始直前にあわてて撮影したものです。
さださんも皆を煽り、まさかの場内全員での「雨やどり」の大合唱。雨やどりは合唱向きの曲ではないな、と苦笑しつつ、大興奮のコンサートは素晴らしい余韻を残して幕を閉じました。
最近、数年前から僕もさださんのコンサートツアーに少し参加するようになったのですが、最近のツアーは非常に楽曲のクオリティは高いものの、何か予定調和的なものを少し感じていました。
しかし今回の「1978年のさだまさし」は、ファンを裏切る嬉しいサプライズの数々、こういうものを体験してしまうと、ますますさだまさしのファンは辞められないな、と感じてしまいます。