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ささやかに傷ついて ささやかに満たされて このいのちを生きたい


解夏(プレビュー) - YouTube

解夏という映画の主題歌「たいせつなひと」の歌詞の中にこのような一節がありました。

寂しいと口にすれば 生きることは寂しい

喜びと悲しみは 光と影のように

いつでも寄り添うもの 

ここまで聞くと、世によくある、人生は弱音を吐かず、前向きに生きていこう、という歌なのかな、と思ったりするのですが、以降の節で

幸せと口にすれば 不幸せばかりが映る


愛ばかりを集めたら 憎しみまで寄り添う

と語られ、世の中は単純ではなく複雑で、とくに一番複雑で飼いならす事が難しいのは自分の心なのでは、と思い至ります。

人は、心の中に沢山の闇と光を抱え、ふとした時にその一部が脳裏に浮かんだり、はたまた言葉としてこぼれ、そして言葉にこぼれるという行為がその後の自分の考え方や気持ちに大きな影響を与えたりします。

たとえば、何かを得たい、何かになりたいと思った時に、実はそのときすでに自分の中に差別の心がうまれたりします。なりたいものになれない自分を蔑み、そのような環境を怨み、はたまたなれている人を憎み嫉妬します。また、自分と同様になりたいものになれていない別の人に対して同情もしつつ、自分に対して以上の蔑視の心が生まれたりします。

たとえば、愛する人ができ、心の底からその人を愛し、無私の気持ちで尽くそうとしたとしても、なかなか人間は無私になることなど難しく、自分の期待する反応が相手から無かった時に、その愛の内側に憎しみの感情が生まれたりします。

かようなほど扱いにくい人間の心を、先の一節で見透かされたような気持ちがし、心がドキりとします。

 

どうしたら、心が安らぐのか。答えは無いと思いますが、この歌の中では以下のように描かれています。

ささやかに傷ついて ささやかに満たされて

このいのちを生きたい

この辺は人生の真理に近いところもあり多くの方が似たようなことを語られています。たとえば『論語』における「中庸」もこういった考え方に近いかなと。中庸とは過剰に足りないことも過ぎることもなく、ちょうど良い状態の事を表し、聖人としての資格の一つとして挙げられています。

中庸之为德也,其至矣乎

 

色々な出来事があって、心が動いた時、もしくは疲れ過ぎて自分の心がまったく動かなくなってしまった時、自分の心の居場所がどこだったのか見失うことがあります。

そういう時は、自分にとって一番大事なものはいったい何なのかをもう一度見つめなおして、多くを求めすぎることも自分を小さく見積もりすぎることもなく、ささやかなこの命を生きていきたいなと思ったりしました。

たいせつなひと さだまさし - 歌詞タイム