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テクニカルについての理解がなくても語れるのが音楽

「自称」音楽好きの人の中で、楽器が弾けない、楽譜が読めない、という人が結構いて、それはそれで存在していても良いとは思うのですが、彼ら彼女らが語る内容というのはどうしても浅くなりがちになるのはしょうが無いのではないかと思います。

だって、たとえば料理の味付けの仕方とかを知らない人が作る料理のレシピ本なんて読むきになりませんよね。なのに音楽の世界については、「私が好きだから」という汎用化が難しい自己顕示欲の塊しか持たない人でも「好き」という事は自称でき、そのことだけを頼りに論評を繰り広げる事ができる世界です。

とはいえ僕も純正律平均律の違いをそれほど正確に語れないし、和音の進行の理論とかもギターで身につけただけで曖昧だし、位相に関する知識も少ないし、音楽史の中での音楽理論の変遷についてもほとんど語れないし、自分が好きなミュージシャンについて「好き」という事を表明することしか出来ない人間であるのは自覚しています。

違うのは、その程度のバックボーンが無いが故に対外的に「音楽好き(ドヤァ」を自称するほど厚顔無恥でいられないでいるか、その壁を超えてしまうか、という差だけかな、と。

そして、超えてしまった人は、「自分は好き」という自分語りをひたすら繰り返すか、音楽についての本質的な事に触れず(触れられず)、たとえばミュージシャンやアイドルの個人的なエピソードとかそういう人間的なところにフォーカスをして、音楽のもつ魅力を極端に矮小化して人間ドラマとして語ってしまったりするのかな、と。

 

個人的には、日本で音楽がもっと人々に愛されるには、音楽に対するテクニカルな部分での教育がもう少しなされる場所が増え、皆が歌や楽器の演奏に今よりも興味を持ち、音楽理論などテクニカルな部分での理解が深まる事が必要だな、と思っています。

それは、日本においてサッカー日本代表がもっと強くなってワールドカップで優勝するためには、多くの人がサッカーに親しみ、サッカーの事を文化としてもスポーツとしても理解し、それこそブラジルの市民と同じくらいサッカーが生活の一部になる事が必要であろう、ということに状況は似ているのかな、と。