アイ

ゆるす

さだまさしの「償い」と言う曲のライナーノーツに、山本周五郎の『ちくしょう谷』の一節から引用されたという以下の文章が載っています。

ゆるすということはむずかしいが、もしゆるすとなったら限度はない―ここまではゆるすが、ここから先はゆるせないということがあれば、それは初めからゆるしていないのだ 

 「償い」という作品は、話者の友人(ゆうちゃん)が交通事故により致死にいたらしめた旦那さんの奥さんに、償いのために仕送りを続けている...という内容が歌われている楽曲です。とくにシングルカットなどはされていませんが、近頃はさだまさし氏の代表曲のひとつとして数え上げられることも多い曲です。

償い (さだまさしの曲) - Wikipedia

 

許すというのは、本当に難しい事だと思います。許す・許されるの関係は主従関係でも無く、許すことが偉い・正しいとも言い切れず、それはただ人の心のあるところであるわけです。人を殺めた、人生においてかけがえのない人を奪われた、といった事に対して、はたして「許す」という選択が正しいことなのか、正直僕の若さではまだ分かりません。

 

「償い」のライナーノーツに書かれている山本周五郎の言葉は、非常に過激な言葉にうつり、どのような物語・文脈の中で語られ、そこまでの心境になるためにはどのような道のりを歩んできたのかを知りたくて、『ちくしょう谷』を読んでみました。

 

ちいさこべ (新潮文庫)

ちいさこべ (新潮文庫)

 

 主人公の朝日隼人が、兄の敵である西沢を追ってか、「ちくしょう谷」と呼ばれる流人で形成された集落を立て直すためなのか、その地に管理職として赴任するお話です。

自分たちの生活を良くするための方法...たとえば教育...というものに関心をもたない元流人の住人との葛藤や、知恵遅れに見えるが素直でかつ妖艶な雰囲気を併せ持つ女性の誘惑、そして西沢との関係の中で、あくまで主人公は自分の信念の元に行動をつづけていきます。

そして、先の言葉が生まれます。

 

上述の発言は非常にストイックで、そこまでのレベルで寛大になるのが正しいのか正しくないのか、その人のためにも厳しく諌める事も必要だろうし、心の底から反省した人に対してたとえそれが肉親の敵であっても許すべきなのか許さないべきなのか...... この物語を読んでもよく分からないところではあります。

しかし、「もしゆるすとなったら限度はない」という苛烈なまでのストイックさを持つ主人公の心の置き場所というのは印象的ですし、非常に考えさせるテーマであると思いました。