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アイ

京都

僕は京都があまり好きではないのですが、中学生時代に読んだ坂口安吾の『日本文化私観』に多少影響されているのかもしれません。あまり普段は意識しないのですが、印象が歳を重ねるごとに一致してきているので、深層心理レベルで影響を受けているのかも。

 

坂口安吾 日本文化私観

 伝統の貫禄だけでは、永遠の生命を維持することはできないのだ。舞妓のキモノがダンスホールを圧倒し、力士の儀礼が国技館を圧倒しても、伝統の貫禄だけで、舞妓や力士が永遠の生命を維持するわけにはゆかない。貫禄を維持するだけの実質がなければ、やがては亡びる外に仕方がない。問題は、伝統や貫禄ではなく、実質だ。 

 日本の庭園、林泉は必ずしも自然の模倣ではないだろう。南画などに表現された孤独な思想や精神を林泉の上に現実的に表現しようとしたものらしい。茶室の建築だとか(寺院建築でも同じことだが)林泉というものは、いわば思想の表現で自然の模倣ではなく、自然の創造であり、用地の狭さというような限定は、つまり、絵に於けるカンバスの限定と同じようなものである。
 けれども、茫洋たる大海の孤独さや、沙漠の孤独さ、大森林や平原の孤独さに就て考えるとき、林泉の孤独さなどというものが、いかにヒネくれてみたところで、タカが知れていることを思い知らざるを得ない。 

 寺があって、後に、坊主があるのではなく、坊主があって、寺があるのだ。寺がなくとも、良寛は存在する。し、我々に仏教が必要ならば、それは坊主が必要なので、寺が必要なのではないのである。京都や奈良の古い寺がみんな焼けても、日本の伝統は微動もしない。日本の建築すら、微動もしない。必要ならば、新らたに造ればいいのである。バラックで、結構だ。

 

以下が結論部

 見たところのスマートだけでは、真に美なる物とはなり得ない。すべては、実質の問題だ。美しさのための美しさは素直でなく、結局、本当の物ではないのである。要するに、空虚なのだ。そうして、空虚なものは、その真実のものによって人を打つことは決してなく、詮ずるところ、有っても無くても構わない代物である。法隆寺平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。武蔵野の静かな落日はなくなったが累々たるバラックの屋根に夕陽が落ち、埃のために晴れた日も曇り、月夜の景観に代ってネオン・サインが光っている。ここに我々の実際の生活が魂を下している限り、これが美しくなくて、何であろうか。見給え、空には飛行機がとび、海には鋼鉄が走り、高架線を電車が轟々ごうごうと駈けて行く。我々の生活が健康である限り、西洋風の安直なバラックを模倣して得々としても、我々の文化は健康だ。我々の伝統も健康だ。必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生れる。そこに真実の生活があるからだ。そうして、真に生活する限り、猿真似をはじることはないのである。それが真実の生活である限り、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである。

 

京都も、たとえば明治以降でも、伝統をひたすら守るというスタンスでもなくたとえば琵琶湖疏水プロジェクトみたいな先進的でハイカラな事を行ったりしています。

琵琶湖疏水 - Wikipedia

しかしここ数十年の京都は一大観光都市としての体裁を保つために身動きがとれなくなっている印象があり、建物は古く(歴史的建造物以外の話)、インフラはボロボロで、個人的な目に映るのは「代わり映えのしない、進化の少ない、時代に取り残された街」という印象です。安吾風に言うと「実質の無い」街。

 「京都の伝統は良いものだ」というステロタイプ的な固定観念を取っ払った時に、自分の心の中、手元に残るものはなにか、という事を考えることが京都に行くと多くなりました。

もちろん、ディズニーランドのような楽しみ方をした方が幸せな気もしますが。