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卑怯者の島

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この記事を読んで、興味をもったので読んでみました。

戦争の実相ということなんです、おそらくは。小林さんは、自分の『戦争論』その他いろんなもので描いてきたので、何となく戦争全面肯定論者みたいに思われているけど、そうではないんだというお気持ちも前からあったはずなので、それがこの作品にはよく出ています。人間は、仮に大義のある戦争に参加するときでさえ、実は卑怯な存在であると。考えてみれば、当たり前っていえば当たり前なんですけどね。そんなに単純な命なんかないんだと。

 

卑怯者の島: 戦後70年特別企画

卑怯者の島: 戦後70年特別企画

 

 一読して、小林よしのりも衰えたんだな、と感じました。

全盛期の彼であれば、もっと人々の心にのこる作品にできただろうに、と。

 

東大一直線(東大快進撃)のラストのシーンや、おぼっちゃまくんの馬鹿馬鹿しさ、ゴーマニズム宣言の最初期の得も言われぬデタラメなエネルギー等々、そういったものから感じた比類無い凄さというものは、この作品の中にはありません。

この作品の評価が落ちる点は、あまりに観念的過ぎるところかなと思います。その結果、作者の中の常識にとらわれすぎ、本当の意味での戦争や人間の実相に極限までは踏み込めなかったのかなと感じます。

 

とはいえ、「稀代の大天才」が、「傑出した才能」に転落した程度の話で、今の時代、戦争というものの実相を知らない、知る機会がいちじるしく少なくなった、戦後70年を迎えた我々が、絶対に読むべき作品のひとつだと感じました。

戦争によってかけがえの無い命を失った人たちを「美談」として飾ることは、亡くなった人やその周りの人たちへの弔いの心の表れではありますが、はたして戦争に守るべき大義や美談があるのだろうか、はたして戦争の本当の姿を写しているのだろうか、と感じます。

 

この作品の読後感として、「本当の卑怯者は、戦争に若者を送り出し、戦後はアメリカにしっぽを振り、のうのうと過ごしている我々日本人だ」というような事を主張する人が(もしかしたら作者も含めて)あるかもしれませんが、そのカウンターとして、坂口安吾の「堕落論」の一節を引用しておきます。

坂口安吾 堕落論

半年のうちに世相は変った。醜しこの御楯みたてといでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋やみやとなる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌いはいにぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。

我々にとっては実際馬鹿げたことだ。我々は靖国神社の下を電車が曲るたびに頭を下げさせられる馬鹿らしさには閉口したが、或種の人々にとっては、そうすることによってしか自分を感じることが出来ないので、我々は靖国神社に就てはその馬鹿らしさを笑うけれども、外の事柄に就て、同じような馬鹿げたことを自分自身でやっている。そして自分の馬鹿らしさには気づかないだけのことだ。

 

終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。人間は永遠に自由では有り得ない。なぜなら人間は生きており、又死なねばならず、そして人間は考えるからだ。政治上の改革は一日にして行われるが、人間の変化はそうは行かない。遠くギリシャに発見され確立の一歩を踏みだした人性が、今日、どれほどの変化を示しているであろうか。

人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。

僕は、人間はみな卑怯な存在であり、その事を直視しないといけない、善悪の価値観を誰か、組織、国に押し付けてもしようがない、と感じるのです。