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アイ

公平心

今日、中国から来た留学生の方とカフェでお話をしていて、たまたま話題が少数民族に対する差別についての話(その際の対象は中国大陸)になりました。その際にその人は「日本はそういう差別がなくて公平な社会で良いですね」と僕に言ったのですが、正直ハッとしました。

もちろんそういう風に認識をしてもらえるのは良いことなのかもしれませんが、多くの日本在住の人にとって、たとえばアイヌの方々に対してどこまで権利や立場を尊重しているかというとかなり心もとなくなります。

また、現在あまり言語化されてないですが、おそらく今後急激に社会問題化する日本における少数民族問題は、「外国から日本に来て、定住した人たち」になるのでは、と思います。

 

日本の外国人 - Wikipedia

wikipediaを見ていると、在日中国人は60万人、在日朝鮮・韓国人は50万人、フィリピン人は20万人、ブラジル人が17万人と、それぞれ日本の全人口比で1%に満たない数字ですが、ある一定数のボリュームを抱える存在です。

中国大陸には「朝鲜族」という少数民族がいたりしますが、日本における上記の彼らも、すでにそれに近しい存在になっている気がします。もちろん国籍の所在がどこか、という話が上記数字では不明瞭ですが、ボリュームが増えれば比例して出身国と現国籍が変わる人も多くなると思います。

 

そういう人たちに、我々自身、どの程度公平に接する事ができているのでしょうか。

たとえば、多くの日本人の深層心理として、「外国の人たちを優遇するくらいなら、俺たちを先に助けろ」という心理が、無いと言い切れるでしょうか?

僕は、正直、何の言い訳をすることなく、こういう差別心が心の奥底にはあります。

しかし、「生まれ育った場所が日本でなく○○だから」「話す日本語が流暢でないから」「肌が我々の色と異なるから」という理由で、対応に差をつけて、色眼鏡で相手を見、公平心を無くすのは、まごうことなき差別です。

 

こういったレベルの認識を踏まえて、じゃあどうしたら良いのか、どうあれば良いのか、という議論が、たとえば報道やメディアの世界でも、一般的な世間話の世界でも、世間的に行われている機会が少ない気がしています。個人的にはその辺が一番の問題だと思っています。

 

もちろん表立って差別をしないとか、悪口を言わない、というのも個々人における心理的な意味での公平感で、多くの日本人、特に若い人はそういう節度を持っている気がします。

ただし、社会的人間として「機会の公平」(平等ではない)というものも必要で、彼らはその公平さを人権のもと享受されるべきです。

行政は、医療は、そして教育は、彼らにとって機会の公平を与えられる存在になっているでしょうか。

 

この辺の事を考えた時に、すぐ思い出すのは、桐生で起きた痛ましいいじめ事件です。

桐生市小学生いじめ自殺事件 - Wikipedia

母親がフィリピン人というだけで、陰湿ないじめにあったこの事件を、どの程度の人が心の底から被害者を悼み、加害者を断罪できるのでしょうか。

心の奥底に「フィリピン人は夜の仕事をしている人たちだから」みたいな蔑視を以ってこの出来事を眺めていたりしないでしょうか。(そういうような視点で、娘さんが亡くなったあとも家族は言われない差別を受け続けたという記事もあります...。)

また、日本語が堪能で、とても明るかった彼女ですらこのようになってしまったことをふまえ、日本語が不自由なひとたちはどのような道を歩めるのでしょうか。

実際問題、両親が日本語が不自由で、子供に対しても十分な日本語教育が行えず、学校に通っては見たものの言葉が通じず落ちこぼれ、結果通わなくなる、といった事例を耳にしたりすることも、最近は増えてきました。

 

今後、日本は少子高齢化の波の中、移民を受け入れる方向になし崩しに進んでいくと思いますが、そういった時代の中、ほんとうに全ての人に公平でいられるでしょうか。自らの心に巣食う、ある意味昔ながらの、上記のような差別心をいかに克服できるのでしょうか。

これは、僕個人としては、今後数十年、日本が直面し克服しなければいけないとても重要な知の問題、そして価値観の相剋の問題だと思っています。

 

みたいなことを、話したりしたので、メモ的に。