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生きてることが辛いなら

もう 10 年ちかく前になりますが、森山直太朗の「生きてることが辛いなら」の歌詞が、自殺を幇助するとして大炎上しました。

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生きてることが辛いなら

いっそ小さく死ねばいい

 

歌詞の一番最後まで聴いていると

くたばる喜びとっておけ

と書いてあるように決して自殺を幇助するような歌ではないですし、歌全体を通して伝わっているのは「辛い」境遇におかれた際の自分自身の心との対話、辛い時にふと立ち止まっていろいろな形で物事を見つめ直す姿、そんなものが歌を通じて歌われているように思えます。

けっして他人の命を無責任に突き放すような歌ではないのは、歌全体を通して聴くと、伝わってきます。

 

この歌は、受け手が体の中に溜め込むように歌の最初から最後まで全てを受け止め、体内で消化し反芻することで、ようやく歌の味や、歌がテーマとしているもの、というものがつかめるようなタイプの歌に思えます。

しかし、曲全体をとおして聴くのはそれなりに受け手にもエネルギーが必要ですし、だからこそ1フレーズの耳心地の良さが求められるポップスの世界の方が受容があるでしょうし、そういう聴き方をする人にとっては冒頭の二小節の強い言葉だけが頭に残り、表面的な事象に脊髄反射してしまい炎上、ということになってしまったのでしょう。

 

 

こういう炎上騒ぎを見て感じるのは以下。

  • 受け手の情報の許容量が極端に少なくなっている。もしくはもともと少ない。長く大きな作品全体を受け止めて理解することをせずに、枝葉末節の皮層に脊髄反射してしまう
  • あくまで作り物の「お話」「歌」なのに、過剰に深刻にとらえて反応をしてしまう。
  • 作者へのリスペクトが無い。

 

たとえば落語。

一言聴いてわかるような細かいギャグも織り交ぜつつ、一捻り二捻り頭をひねらせないと意味が分からないわかりづらい(そしてとても良くできた)笑い話や、小話の全体のストーリーを一から十まで聴いてはじめて合点するような笑い、という世界があります。

 

たとえば、ミステリー小説。

伊坂幸太郎の作品などは、『ラッシュライフ』がその典型ですが、200ページくらいある作品の中で積み上げてきたお話を、最後の数ページであっというどんでん返しでひっくり返す。という世界があります。この驚きは、作品全体を一からくまなく読んできた読者に対する最高のプレゼントです。

 

落語の世界であれば、たとえば熊さんがどんなに話の中で馬鹿にされたとしても、「そういうフォーマットのお話」ということで話が済みますし、それを「いじめだ!」と作者を批判する人もいないでしょう。

ミステリー小説でも、登場人物の細かいセリフや舞台設定を取り上げて、作者の人間性を攻撃するようなこともないでしょう。

 

歌の世界だけ、歌のごく一部を切り取って恣意的に理解し、過剰に攻撃や批判をする、ということが発生するのは、なぜなのでしょうか。

一部を切り取りやすいフォーマットであること、他の創作にくらべて作者自身の人間性や考えが反映されている(と誤解しやすい)こと、などがあげられるかもしれません。

 

または、もともと、そこまで歌詞にたいして強い作家性を持たずフレーズごとに耳障りのよい言葉を並べるだけで作品を作り上げる人が少なからずいるため、聴き手も全体を俯瞰して聴くというよりは細切れの断片断片の心地よさを求めがち、なのかもしれません。

 

ひと時代前だと、たとえばミスチルみたいに個々のフレーズとしては心地よいことや良いこと言ってる風だけど全体を通すと支離滅裂な歌詞を歌うミュージシャン、というのもいましたが、今はさらにその「断片化」が進んでいるように思えます。

 

個人的に、2016 年に聴いて衝撃だった曲が、西野カナの「have a nice day」

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I say 

がんばれ私!

がんばれ今日も

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

Huppy 

Lucky

Sunny Day

行け!行け!私

その調子

いい感じ

こんな感じで、ポジティブな感じの単語がひたすらならぶ歌詞の作りになっています。一応日本語で書かれていますが、日本語の文章としてはあまり成立していない、短い断片的な単語を無理やりつなぎ合わせたような作りになっています。

これだとどこをどのように切り取られてもなんとなくポジティブな感じがするし、聴き手も集中して聴いたり歌詞について考える、というよりは「ながら」で気軽につまみ食いができる曲になっている気がします。

 

西野カナはとても歌唱力があって歌声は心地よいですし、歌詞に意味を持たせないで雰囲気を表現するだけの飾りとして使う人もいるので(代表的なのは、さだまさし北の国から」)、私はこういう歌の存在を否定する立場ではないです。

 

しかし、さすがに「have a nice day」は歌詞をじっくり聴いくにはスカスカな歌過ぎる気がして、一曲通して組み上げられる濃厚な世界観みたいなものが好きな人にはなかなか受け入れられないような気がします。

だからこそ森山直太朗のような歌い手も必要なわけです。

しかし、森山直太朗の歌を、西野カナの曲を聴くようなスタイルで一部分を切り取って消化し、安易に否定、というのは、自分の価値観でものごとを切り取ろうとしている視野の狭さを感じてしまいます。

 

西野カナのようなポップで軽い歌い手がいてもいいし、森山直太朗のような重厚でねっとりとした歌い手がいても良い気がします。そのスタイルを聴き手も尊重し、理解し、リスペクトをして、歌い手の世界をできるだけ「ただしく」聴いてあげるのが良いのではないかと思います。

 

とつぜん 10 年前の曲を引っ張り出したのは、ちょうどいま森山直太朗のコンサートツアーが行われていて、その報を聞いてふと思い出した感じです。炎上や活動休止等いろいろありましたが、森山直太朗は「絶対、大丈夫」な感じのようです。

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