見えない貧困
見てました。
僕が子供の頃に直面した内容をおさらいするような内容で、なかなか他人視することができない内容でした。
剥奪指標
番組上で大きなテーマとして、「剥奪指標」(子どもたちがなにを奪われているか)という点について取り上げられており、剥奪指標には以下の3種があるとしていました
- 物的資源の欠如
- つながりの欠如
- 教育・経験の欠如
つながりについては、お金に余裕が無い家庭ではどうしても親と子の交流が不足し、結果として子どもの人間関係が袋小路的になってしまうこと。
教育・経験の欠如としては、学習塾などに通わせることができないこと、などが上げられていました。
大田区子どもの貧困対策に関する計画
剥奪指標の調べ方について、首都大学東京が中心となって東京都を中心とした地域における「子どもの貧困」調査した内容について、大田区の事例について紹介されていました。
大田区側の資料は、以下のようなものになるでしょうか?
https://www.city.ota.tokyo.jp/kuseijoho/press/release28/20161202.files/172_20161202gaiyo.pdf
子どもからみた生活の困難を子どもに対してアンケートを取る、という方法で状況を行っていました。
一例を挙げると以下のようなもの。
以下の子どもとの経験や消費行動、所有物に関する 14項目に関して、経済的な理由で与えられていないとする項目が3つ以上あると回答した世帯
①海水浴に行く
②博物館・科学館・美術館などに行く
③キャンプやバーベキューに行く
④スポーツ観戦や劇場に行く
⑤毎月お小遣いを渡す
⑥毎年新しい洋服・靴を買う
⑦習い事(音楽・スポーツ・習字等)に通わせる
⑧学習塾に通わせる
⑨1年に1回程度家族旅行に行く
⑩クリスマスのプレゼントをあげる
⑪正月のお年玉をあげる
⑫子どもの年齢に合った本がある
⑬子ども用のスポーツ用品・おもちゃがある
⑭子どもが自宅で宿題をすることができる場所がある
剥奪指標の高い子どもは、自己肯定感や将来への希望などが持ちにくい、という話もされていました。
生活費をバイトで稼ぐ高校生
高校生になるとバイトでお金を稼ぐことが可能になるため、子どもの貧困が見えなくなる、というお話がありました。
番組上の例では、週四日働き、月7万円程度の金額を稼いでいる女の子の状況が紹介されていました。バイトがきつくて、学校を休んだり、勉強に身が入らないという状況も紹介されていました。
進学にかかる費用
貧困家庭でなくても、家にお金の余裕がなく、進学を諦める、もしくは奨学金や教育ローンなどで借金をして大学進学を目指す、という人についても触れられていました。
学校の成績がトップクラスだという女の子が、お金の工面に困り、先生に相談したところ教育ローンを紹介され、自分の将来を案じて崩れ落ちる、というシーンもありました。
僕の所感
以下は番組内容をうけての僕の所感です。
自分の境遇から。僕は父親がギャンブル狂で、外ではパチンコに生活費の多くを費やし、家では酒ばかり飲んでいる、という人でした。母親はそれにくらべてしっかりして、とても我慢強い人で、その御蔭で家庭はかろうじて崩壊することを免れていたきがします。とはいえ僕が高校生の時に離婚してしまいましたが...
そういう事情もあり、小学生に対する上記14項目のアンケートについて、3つ以上当てはまれば「剥奪」されている子どもということですが僕はまさにそのような子どもだったようです。そして高校入学と同時にバイトを週3~4程度で始め、学費とか生活費などを自分で払っていました。母親の目が届いていればそのようなことは絶対させなかったのでしょうが、当時は毎日のように父母が喧嘩をしていて、無政府状態だったので...
とはいえその状況を以て自分自身が恵まれてないかわいそうな人だ、と当時思っていたかというとそうでもなく、それなりに日々明るく生きていたような気がします。
「剥奪された」という感覚も、あまりなかったような気がします。
この番組に描かれていたような内容、そしてもしかしたら僕のような境遇、が良いこととは思いませんが、以下のような事を感じてしまいます。
情報が多すぎるのではないか
僕の時は、今のようにネット上に情報が遍く存在しているような時代ではなかったので、様々な情報を手に入れることは難しく、結果、自分の立ち位置というものを正確に理解することはできてなかったように思えます。その結果、絶望もしませんでしたし、かなり今から考えると楽観的に過ごせていたように思えます。たとえ根拠の無い自信だとしても。
今は、スマフォがあれば、いくらでもインターネットのリソースにアクセスできて、自分の境遇について正確に理解できてしまうのかもしれません。ネット上の真偽不明の噂話に心をざわつかせることも多いかもしれません。
情報が多すぎると、自分で考える範囲が狭まり、多くの選択肢から「より正解に近い」選択肢を選ぶ作業に終始してしまう気がします。その結果、「貧困は良くない」という価値観に触れることで、自分が貧困に置かれていることに極端に負い目を感じ絶望してしまうこともあるかもしれません。
見えない貧困と言うが、もともと見えてない、もしくは見る気も無かった世代がいたのでは
僕自身ももしかしたら今回のNHK特集が定めるような「貧困」の定義に当てはまっていたのかもしれませんし、正直僕よりもさらに辛い境遇に置かれているような人も中学生の頃には同級生にいたりしました。
しかし、彼らや私に当時の教師や行政が手を差し伸べていたかというと、そのような事は一切なかったように思えます。
今でもよく覚えているのは、大学進学時、僕自身の学力ならもっとずっと偏差値の高い、誰でも知っている有名大学に行ける状況だったのに、学費などの関係で水準をだいぶ下げて大学を選ぶことになりました。もっともその直前まで高校卒業後にすぐ就職をする算段をしていたので、それに比べれば大学に行けるだけでも幸せだと思ってました。
その状況を知った担任教師は僕に「もったいない」「馬鹿じゃないの」とだけ投げ捨てるように僕に言い放ちました。
「じゃあ、僕に学費出してくれるの?金銭的な援助をしてくれるの?」と聞きたかったですが、無駄なので適当にその場はあしらいました。
今は相対的に昔より日本が貧しくなり、その結果「貧困」の枠にはまってしまう人が増えてきたから、こうして社会問題化されているという側面があるとは思います。しかしその状況は、昔から存在し、そして昔は見て見ぬふりをしていた。
そういう貧困層が当時は少なかったからかも知れないし、その当時は国にお金があって国民負担が少なくてすんだから困らなかったからかもしれないし、「自助努力」の一言で片付けられる時代だったかもしれません。
その当時に親だった世代の人のそのような感覚や経験値が、今や社会の上層にたどり着いた、もしくはリタイアして悠々自適の生活をしている人たちの感覚なのではないかと思っています。なので、行政的な改革もなかなか進みづらいのでは無いかと思います。
(絶対に、自分たちの福祉を削って、子どもたちに回せ、というような発想にならない)
真の貧困はどこにある
僕が自分自身を貧困と感じなかった理由を箇条書きで挙げると以下のようなものかなと思います。
- (ある意味余計な)社会についての常識やあり方を教えてくれる大人の欠如
- 母親の愛情
- 自分自身がお金をかけてもらってもないのに勉強がそこそこ出来た
- 都心近くに住んでいた
家にはお金は無かったですが、幸いにも中学生のころまでは母親の愛情を常に感じることのできる環境で育ったため、何を買ってもらわなくても、どこに連れて行かれなくても、寂しさを感じることは特にありませんでした。
そのことをあげつらう意地悪な大人があまり周りに居なかったことも、幸せだったような気がします。
そして、都心というか川崎市の北部ですが、電車でどこにでもアクセスできる便利な場所に済んでいたので、お金はなかったかもしれないですが能動的に様々な経験をすることができる環境だったのが大きい気がしています。大学進学後も半分くらいの期間は自宅から通うことができたので、金銭的負担も限定的にすることができたのも大きかったです。
地方都市や、農村部で、貧困と呼ばれる環境に置かれた場合、その子どもを救済する手段はどの程度残っているのでしょうか?
行政にも金が無い、様々な情報を体験するためのアクセス手段がない、とした場合、地域で支えるにしても大人もおらず老人だらけ、かつ老人に「金を回せ」という声が大きい。
家庭の問題と捉えすぎ、家庭でなければ行政の問題だと捉えすぎ、子どもたちに遍く普遍的に提供できる社会インフラについて目があまり行っていないように思えること、都市部と田舎の格差にあまり目が行っていないように思えることに、若干不安を感じてしまいます。
この辺のテーマは非常に幅広いので、 全体的に網羅するのは大変ですが、僕個人が気にとまったところだけ散文的に記載しました。