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アイ

べからず

最近休日の時間がある時などに図書館で詩経を読んだりしてるのですが、さすがに図書館に置いてあるものは白文ではなく書き下し文の書籍です。もちろん詩経ぐらい古いものになると日本語の解説が無いと読めないですが...

大学時代は白文で中国語として読むことが多かったので、今こういう中国の詩を書き下し文で読むのはとても新鮮な気持ちになります。

その中で、とても気になったのが「べからず」という言葉。

 

たとえば、周南-漢廣 の一節

南有喬木 不可休息
漢有游女 不可求思

これを書き下し文にすると

南に喬木有り 休息すべからず
漢に游女有り 求思すべからず

という感じになります。

 

我々現代人が「べからず」と聴いた場合、「してはいけない」という意味に捉えます。まあ現代語ではそういう意味なのでしようがないのです。

しかし、この場合は「できない」と訳します。なぜなら原文の "不可" には "できない" という意味はあっても "してはいけない" という意味は直接的には無いからです。

 

この書き下し文が発明されたタイミングでは、"不可" と「べからず」の間に、意味的な結びつきがあったのでしょう。しかし双方の言葉の使用の変遷の結果、細かい意味・用法の乖離が発生しているように思えます。

 

これから漢文を学ぶ中高生は、"不可"を「べからず」と読まなければいけない「書き下し文のテクニック」と、「べからず」の旧新の意味の乖離のような「書き下し文が発明された際の言葉の意味と現代語の乖離についての穴埋め知識」の両方が求められる、という状況に置かれていると思っています。

ひとことでいって、アホくさい感じがします。漢文の授業が嫌われる理由もよくわかります。

 

たとえば、中国語の "不可" については、意味の変遷は詳細はしりませんが、今でも "不可(以/能)" で「できない」という意味になり、その意味で古代と現代で大きな乖離は発生していないように思え、この詩経の一節も中国語について多少精通している人であれば変に意味を取り違えることもなく素直に読める文章です。

本来、中国語で書かれた文章なのであり、書き下し文を発明した人の工夫とアイデアには敬意を評しますが、今は書き下し文のレガシーが正確に文章を理解するための障壁になっているようにも思えます。

 

上記は今思ったことと言うより、僕自身も高校生のころに感じた矛盾ではあります。

 

以下はたわごとですが、

中国語の詩は、日本の和歌と同じように、ただ文章としてのリズム感を持っているという事以上に、実際に節やメロディに乗せて歌われていた「歌」としての側面がとても強いです。

南有喬木 不可休息
漢有游女 不可求思

 

の一節も

nan you qiao mu  bu ke xiu xi

han you you nv  bu ke qiu si

というように、同じ漢字以外でも「南」と「漢」、「木」と「女」、「休息」と「求思」、といった感じで対になる語の音律がとても似通っている、韻を踏んだ文章だと言うことがよくわかります。

しかしこれを

みなみにきょうぼくあり きゅうそくすべからず
かんにゆうじょあり きゅうしすべからず

と読んでしまうと、韻律の美しさが失われてしまいます。

意味も不明瞭になり、韻律も無視されてしまう、というのは詩の良さのすべてを削ぎ落とす作業にも見えてしまいます。

たとえばこれをひたすら音読みで読む、というのはどうでしょう。

なんゆうきょうぼく ふかきゅうそく

かんゆうゆうじょ ふかきゅうし 

"不可" は「べからず」とせずに「不可」とすれば概ね原義に意味が近いですし意味も理解しやすいように思えます。そして音的にもそれなりに韻律が残されるようにも見えます。

 

 

中高生の習う漢文というのは、「その作品が述べている意味を正確に理解する」のが目的なのではなく、「昔の人がこの文章をどのように読んでいたか、そのテクニックを学ぶ」授業だと思っています。としか、好意的に捉える方法を私は持ち合わせていません。

それはそれで無意味・無価値だとは思いませんし、「国文学」の観点から何かしらのかたちで継承すべきテクニックではあると思っています。

 

しかし、授業で書き下し文に苦しんでいる人、僕が高校生のときに感じた上記のような矛盾にたどり着いた人には、「そんなの気にしないで、中国語で読めばいいじゃん、もしくは全部音読みで読めばいいじゃん」と言いたい気持ちです。そのほうが、素直に作品に歩み寄れると思います。

 

書き下し文は、軽んじるべからず。

しかして、重んじるべからず。