アイ

ラ・ラ・ランド再考

僕は、映画を見る前も、見た後も、知ったかぶりの知識を身に着けてそれらしい論評をしようと思わないタイプの人間です。世間の評判もほぼ気にしません。

なので、前回書いた記事も、前提知識がほぼゼロの状態で見て、そのままの感想を知識を補わずにそのまま書いたものです。

moaikids.hateblo.jp

なので、この意見がどの程度正しくて、どの程度他の人が同じような意見を述べているのかいないのか、全然気にせずに書いているのですが、しかしこの映画については心に引っかかるところがありいろいろ記事を眺めていると、自分と同じような感想を持つ人が意外と多いのだな......と思ったりします。

無意識に自分と同じ意見ばかりを集めている、ということもあるでしょうが。

感想とは「ハリウッドの価値観が凝縮された」「スーパーリッチ層のための映画」で「(白人中心主義を強く感じさせる)多様性の無さを感じる映画」ということです。

 

wired.jp

白人のゴズリングが「ジャズをいかに救うか」について何度も語るシーンでは、アフリカ系の人々が、彼らがつくり上げた音楽をバックで演奏している。ゴズリングのジャズピアノやストーンのジャズダンスだけに焦点を当てるシーンがいくつもあることは、時に人種差別的であるように感じられる。

ジャズやミュージカルについての映画にもかかわらず、アフリカン・アメリカンや性的マイノリティの人々をないがしろにしていると、さまざまな音楽家たちに批判もされている。いまの時代に観るにはフラストレーションが溜まるのだ。

『ラ・ラ・ランド』は“白人化された”作品だ。作品は楽しく、エマ・ストーンは素晴らしく、勢いのあるミュージカルやセットデザインは見ていて気持ちがいい。しかし、ジャズについての映画にもかかわらず、アフリカン・アメリカンには焦点を当てずに、白人の主人公2人に偉そうにジャズ文化を語らせているのは褒められたものではない。とはいえ、この映画はアカデミー賞では評価されるだろう。なぜならハリウッドは、ハリウッドを描く映画が大好きだからだ。

 

WIREDの中の人は、この映画についてかなり腹に据えかねているらしく、こんな記事も書かれていました。

wired.jp

記事のタイトルは「擁護」と書いていますが、その記事のタイトルが「why we hate this movie」となっており、いっさい擁護をする気が無い様が伺えます。

つまり、「あえて」マイノリティを後退させ、そのなかでライアン・ゴスリング演じるセブに「ピュアなジャズの死」を語らせることで、かえって「後退化させられたマイノリティ」に注目が行く。そうすることでチャゼルは、ミュージカルの世界を称揚しつつも、その一方で「白人優位」だったミュージカルの世界をも批判するのだ。そして、さらなる拡大解釈が許されるのであれば、そこには、いまなお続く、白人、そして男性優位のハリウッド社会への批判までもが含まれている。

そんな馬鹿な、と苦笑せざるを得ない文章になっています。どう考えても褒め殺し、言いたいことは真逆の反対であると万人に思わせる文章になっています。

 

個人的には、以前「アメリカンスナイパー」を見たときにも同じような事を感じたのですが、日本人には、少なくとも僕には、「ラ・ラ・ランド」が描く世界の意味と、その影響について、アメリカ人ほど正確に理解することは難しいように思います。

映画作品がもたらした世論の盛り上がりから、この映画の時代的な必然や意味を考える、くらいが僕に出来る関の山かな、と思います。

そして、これだけ話題が紛糾するという事実だけを以ても、この映画が本年を代表する映画であるのは間違いないようです。

 

本作へのあらゆる批判が的外れに聞こえるのは、まさにそのためだ。自分で見出した自分への共感を人様にあれこれ言われる筋合いはない。まして「ポスト・トゥルース的だ」などという批判に甘んじることもない。そもそも「夢」や「愛」は、「ポスト・トゥルース」なんて言葉が生まれるはるか昔から「ポスト・トゥルース」的な何かだったにちがいない。『ラ・ラ・ランド』は、そう、甘くささやきかけている。