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人生で失ってはいけないものは何か

最近、ここ数年、自分が年齢を重ねていくのに合わせて、「尊敬される老人になるにはどうしたら良いのだろう」と考える事が多くなりました。

老人と呼ばれる年齢になるにはまだかなりの年数がありますし、体の弱い自分がそんな年まで生きられるだろうかという思いもあります。とはいえ、目指すべき道筋というものは考えておいて損は無いだろうという思いからです。

 

いろいろ頭の中で考えてみました。

 

年月を重ねれば経験や実績を積むことは出来るわけなので、「多くの経験をしている」というのがキーワードになるかなと考えました。

もちろん長い時間生きてきた結果知ることが出来る世の中の理や普遍性もあると思いますが、世の中は常に変化を続けており、特にいまの時代は変化が速く、過去の成功体験が逆に足かせになって新しい発想ができなくなったりします。その結果、「老害」などと罵られてしまうこともあるのかなと。

 

「お金を持っている」。これもあるのかなと思ったりもしました。「衣食足りて礼節を知る」という言葉もありますし、余裕が生まれることによって尊敬にたる行動を人が取るようになるかもしれないなという思いからです。

日本は、バブル崩壊前に資産を築くことができた「逃げ切れた」世代の人たちは僕たちのような若者に比べ相対的に多くの資産を持っています。

では町中を歩く彼らの姿を見て尊敬できるかというと、、。お金を持っているはずなのに、ちょっとした子供の振る舞いに対して悪態をついたり、列にも並ばなかったり、自分ばかりが良い思いをしようとやっきになったりと、とても尊敬に足る行動をする人を見かけることは少ないです。伝記漫画や小説の中で見るような、後進の育成に力を注ぐような老人が本当に最近は少なくなったように思えます。

 

一応、ひとまずの結論として、老人になったときに尊敬されたいと思うのなら、「品」を身につけるのが良いのかな、と考えた事があります。

「品が良い人」とはどういうことか、定義は難しいですが、個人的には「不必要に相手の感情を刺激しないような作法を身に着けている人」と認識しています。

いつでも相手の感情をうまく推し量って理性的な対応ができ、食事や挨拶など様々な所作が流麗で無駄がない。

確かに、品が良い人になる、というのは、人生の目標に掲げるに足る目標だなと思います。

 

 

ここまで考えたのですが、それでも自分の心にしっくりくることがなく、そもそもテーマの設定が間違っているかも、と思い直しました。

小さい子ども達のほうが、おじいさんおばあさんよりも礼儀正しいことが多いのはなんでだろう。

お金を持っている人の行動が不遜になりがちで、お金に無頓着な人のほうが人生を謙虚に生きているのはなぜだろう。

なぜ経験もあり、お金も持っているはずなのに、品を身に着けられない人が多いのだろう。

 

僕は、年月を重ねるごとに、何かを得ることができる、何かを身につけることができる、と勘違いしていたのかもしれないな、と思いました。

そうではなく、「本来は誰もが持っていたはずなのに、慣れや慢心、驕りによって失われていくのではないか」「本来持っていたはずのものを失った人はみすぼらしく見え、失わないで居続けている人のことが眩しく見えるのではないか」という風に、最近は思い至りました。

 

多くの人が皆持っていて、そして年月を重ねるごとに失ってしまうものは何か。

僕は「良心」だと思います。

 

最初は皆謙虚に生きていると思います。別にこの世に生を得た瞬間から他人を傷つけたいと思って生きている人はいないでしょうし、大人になっても大半の人は自分の人生と他人の人生の安寧を祈って慎ましく生きています。

目の前で傷ついた人、困った人がいれば、本能的に「助けたい」と思い、ささやかでも行動をするでしょう。すでに十分に困っている人には、それ以上困らせようと意地悪をすることも無いはずです。

その気持ち、子供のころから持っていたはずの根源的な反応が「良心」なのだと思います。

 

それでも、分不相応な「力」を手に入れることで、勘違いをし、その勘違いに慣れた結果、自然と良心を手放してしまう事が多いと、感じています。

概ね資本主義の世界では、「力」とは「お金」であり、お金を生み出す装置としての会社の「役職」だったりします。

 

たとえば、ある日突然分不相応に多くのお金を手に入れた結果、それらを「運」「めぐり合わせ」ではなく「自分の実力」と勘違いし、結果として「運を手に入れてない人」の事を下に見るようになったりします。

お金を手に入れることで、お金によって多くの物事が解決できるようになり、自分の意図通りにいくのが当たり前という発想になったりします。相手がどのように考えているかとか、どんな状況におかれているかなど全く無頓着になり、自分の私利私欲を満たすことがけを考えがちになります。

世の中は自分の意図通りいかないことばかりなのに、うまくいかないことがあると過剰に当たり散らしたり他人の責任にしたりしてしまいます。

 

お金だけでなく、会社における職位、ポジションでも同じ事が言えると思います。能力もないのに、たまたま会社組織のルールでそのポジションにつくことができた人が稀にいますが、そのポジションに固執する人はたいてい良心を捨てます。

その職位についていることだけを以て「自分は特別だ」と勘違いし、ふさわしい能力を身につけるための努力は怠り、分不相応のそのポジションを手放さないよう良心に反する行動だけを取り続けることがあります。

 

そして、良心というのは、感染するものだと思います。いい意味でも悪い意味でも、特定の人の行動が他人に伝搬します。

良心をなくした人が、正義に反する事…自分たちの利益のために嘘をついたり、人を騙したり、さしたる理由もなく気に入らない他人を陥れたり、自分の感情の赴くままに好き勝手に行動したり…繰り返しを行っていても、意外と人は「それはいけないんじゃないか」と声を上げることができません。

どこかで誰かが苦しんでいたり、ひとり辛くて涙を流している人がいても、自分には関係無いと無視を決め込んでしまいがちです。

今の日本の社会が、そのようになっているように思えます。

 

良心を以てそういう人たちの手助けをしようとしたり、意義を唱えるような人もいます。しかし今の日本社会では、そういう正義感を持っている人ほど周りの「良心を失った大人たち」の利害に反すると力で潰されてしまいます。そういう様をを目の当たりにすることで、自分の身を守るために良心を削り落としていく事もあると思います。

 

良心を失った人がお金や権力を持っている場合、その人の「おこぼれ」を手に入れるために、積極的に歓心を買う行動に出る人もいるでしょう。歓心を買うためであれば、おこぼれをもらうためにその人も良心を失った行動を取ります。

 

そして、周りの人たちのそういう行動に慣れすぎた結果、多くの人が、心の中にあった良心を削り落としてしまい、結果として良心をなくしてしまった人たちと同じような行動をするようになってしまいます。

 

孟子は、「性善説」を唱えた人として人口に膾炙していますが、良心についての記述が告子編に多く見られます。

人性之善也、猶水之就下也。人無有不善。水無有不下。

人間が善であるということは、水が低きに流れるのと同じくらい当たり前のことだ。善でない人間はいないし、低きに流れない水もない。

養其一指而失其肩背、而不知也、則爲狼疾人也。

指に気を取られ、肩や背中を失い、それに気づかない人は、すなわち「狼疾」の人だ。

 

我々は何かを積み上げようと考える前に、まず、いま掌にあるはずの「良心」を手放さないよう、日々努力をしていく必要があるのかな、と感じています。

 

そして、良心は、今の日本社会では、「お金」を手に入れることで、容易に失いやすいな、と、実際に良心をなくした多くの人に接した結果、個人的には確信をしています。

お金という力を手に入れてもかつ良心を失わない、これこそが現代社会において、最も達成が難しい「品」のある振る舞いなのかな、とも思っています。