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桃花鳥

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夢の轍 プライス・ダウン・リイシュー盤

夢の轍 プライス・ダウン・リイシュー盤

 

 

世の中の世情を皮肉り、流行に流されて本当に大事な事がないがしろにされている世の中に対して憤りを示すが、日常が忙しすぎてそれでせいいっぱいである、という市民としての人生の苦悩というべき心情を叙述している歌です。今から40年近くまえの作品。

 

何かしらの形で世の中を批評するということは、極めて大事なことであるのと同時に、「何かを否定する」ということが正しさの証明であると安易に判断してしまう事が多いように思えます。

世の中で不正義が行われていて、そのことを批判する人がいたとして、批判の内容がどれだけ正当で真っ当であったとしても、「批判をした人の方が正しい」とは必ずしも言えない。

でも、不正義に対してのアンチテーゼが「正しい」であると安易に信じがちな世の中です。

 

僕が高校時代に、同級生がなぜかさだまさしのこの歌の存在を知っていて、主に世の中を批判的に捉えている事を指して「この歌良いよね、正しい事を言っている」と僕に話した事がいまだに心に残っています。

 

この歌は、さだまさし本人の、個人的なつぶやきであり、誰かに認めて欲しかったり、誰かに「正しいよね」と同意をしてほしいと思って作った曲ではないのだと思います。ただ、自分はこう思うよ、ということを呟いた曲。

それを、有名人が言っているから、有名人がなにかしら世の中に対するアンチテーゼとなる価値観を提示したから、それを多くの人が賛同しているから、そんな理由で安易に同意し、流れに身を任せて「正しい」と判断するのは、危うい行為だなと思ったりします。

 

特に最近は、なにかマスメディア的に「悪者」扱いされてしまった人には、何をしても良い、何を言っても良い、という風潮が顕著になってきているように思えます。「正しさ」とは、「悪人」「間違っている人」を否定すれば自然と身につくものではないと思いますし、「正しさ」とは一種類ではないし、世の中に広く広めようとすればするほどその「正しさ」とは本来個々人の心の中にあった姿とは似ても似つかないものに変貌してしまうように思います。

 

個人のつぶやき、にとどまる事を許容することが、より多くの人の正しさを許容することにつながり、「多くの正しさ」に対して寛容な世の中になれるような気がします。

そして、変に世の中におもねることなく個人の中にある「つぶやき」の形のまま、自分の気持ちを残し続けて居たほうが、結果として多くの人に共感として伝わることも多いのかなと思います。

 

ここまで書いて、以前に泉谷しげるが、さだまさしの作品群について述べている記事が有ったことを思い出しました。
www.news-postseven.com

 

 そして発明というのは、常に個人的作業なんだよな。集団じゃない。さだの場合は、その「個人」が徹底している。たとえば『防人の詩』で、右翼だなんだって叩かれたけど、あれはそういう歌じゃない。

 たいそうな歌詞だから誤解されるんだろうけど、実に個人的なため息だな。「個人的なため息」だから、皆でシングアウトできない。皆で合唱したら、右翼的なナショナリズムに繋がっていくけど、あんなため息、歌えないだろ? 

 

(中略)

 

 時代にすり寄った作品には何にも感じないが、「個人的なため息」っていうのは、個人である分、思いが強い。だから、「金頼む、なんてオレは親に電話しねぇぞ」って思うけれど、親になかなか連絡しないというのは、どこかで思い当たる。「ああ、オレ、親に冷たくしてるかな」とか思ってしまうんだろうね。痛いところを突いている。これが「作家」なんだろうね。