レペゼン
たまにAbemaTVでフリースタイルのラップの番組を見ています。
即興で言葉を載せていくのは楽しくて、結構時間を忘れてみちゃいますね。
ただ、専門用語というか、仲間内の馴れ合いというか、聞きなれない言葉が結構多いです。
代表的なのは「レペゼン」
どういう意味なのか調べてみたら
「レペゼン」とは、ヒップホップ用語で「◯◯を代表する」という意味である。「〜からやってきたぜ」という意味でも使われる。
この◯◯には出身である地元の名前が入る。たとえば埼玉出身なら「レペゼン埼玉」、大阪出身なら「レペゼン大阪」といったように使う。
(中略)
元々の英語は「代表する」を意味する「Represent(レプリゼント)」で、略す&訛らせて「レペゼン」と発音している。本来の英語の発音ではない和製発音である。ネイティブのラッパーに言っても通用しないので注意。
うわー、って思わず唸ってしまいました。
Representを「レペゼン」にする感覚はちょっと理解できない。さすがにこの略し方は無いし、もっと言葉を大事にする人たちだと思っていたのですが。
ヒップホップやフリースタイルが大衆権を得ていくためには、こういうところが課題になっていくのかなと感じました。もちろん、やっている人たちはそんなのクソ食らえと思っているかもしれませんけど。
パスワードシンドローム
飲み会やランチの席で、僕がさだまさしを好きだって事を知っている人たちに「さだまさしってフォークの人だよね」「なんで70年代の古いフォークソングをいまだに聴いてるの?」といった話をされることがたまにあります。
そういう人たちに、さだまさしは3歳からバイオリンの英才教育を受けていてクラシックの十分な素養を元に曲を作ってるんだよ、クラシック音楽と文学的な世界観の融合が魅力で、単なるフォークミュージシャンではないんだよ、と話をすると結構驚かれます。
「精霊流し」「無縁坂」などでバイオリンを弾いてる動画を見せたりすると「私の知ってるさだまさしと違う!!!」と驚いたりする姿を見るのは楽しいですね。デビュー時からバイオリン弾いてるし、代表曲もバイオリンを弾く曲多いのに、お前の知ってるさだまさしはなんなんだ、という世界です。
とはいえ、さだまさしも歌手デビューから45年、世間的に知られている大ヒット曲は70年代〜80年代に集中している「昔」の歌手に思われるのも致し方ありません。昔はお世辞抜きで流行歌手だったようですが、今は最先端の流行を作り出しているというわけでもありません。
「コンサートでは、どうせ昔の曲ばかりやってるんでしょ?」
そう言われることも多いのですが、その際は昨年発売されたこの曲を聴かせる事を常にしています。
最先端とまで言うのは憚られますが、今風の4つ打ちのEDM風のBGMに乗せて、Auto-Tuneのエフェクトでギンギンに補正された機械的なさだまさしの声が流れてくる。若者よ、これが21世紀だ(?)と言いたくなるような仕上がりになってる、この「パスワードシンドローム」。
アルバムにただ収められているだけではなく、昨年の45週年ツアーではオープニングにクラブのダンスフロアのような重低音のバスが鳴り響くアレンジの中、客席は総立ち、各々購入したLEDライトを腕にはめ(ちなみに「さだDaヒカルっ」という名前が付いている)、EDMのノリにあわせて60歳以上のジジババが中心の観客が踊り狂うという「世界の終わり」のような光景が繰り広げられていました。
昔のさだまさしの曲ばかり聴いているという人は、ちょっと趣味の柔軟性が硬直化している感じがしますが、それとは関係なくさだまさしは常に新しい面白いことをやっている人で、さだまさし自体に古臭さを感じるということはファンとしてはありません。特にツアーなどによく参加しているとよりそう感じます。
このパスワードシンドロームは、楽曲として見ても歌詞が良くできているなと思います。
パスワードにまつわる「あるある話」と、彼女との心のやりとり、恋愛模様をうまくかけ合わせた歌詞になっています。
サビの「最初はやさしかったのに」は、パスワードの覚えやすさと、相手の心もようを上手くかけ合わせていますね。
「その窓を閉じないで」は、心の窓と、パソコンのウインドウをかけ合わせています。
「見つめ合うだけじゃ駄目なの?」はiPhoneのFaceIDを皮肉っていますね。
楽曲全体でみると、CDに収録されているバージョンはちょっと完成度が低いかなと感じるところもあります。これはこの年にレコード会社をビクターに移籍し、そのプロモーションのために急いでCDを仕上げたせいかな、と個人的には思っています。
ライブバージョンはとても良いできだったように個人的には思います。
そういう感じで、さだまさしは新しいジャンルに常にチャレンジしていますし、その楽曲もCDで録音したものからライブを重ねるごとに形を変えて完成度を高めていきます。
固定観念やステレオタイプで評価するのはもったいないから、ぜひ健在なうちにライブに足を運ぶのが良いのではないか、そんなことを感じさせるミュージシャンです。
黄金律
心の底からの「善意」ですら、受け取る人にとっては「悪意」になってしまう。
「幸せ」ですら、場合によっては「敵」になってしまう。
「一般的」「あたりまえ」「ふつう」「みんな」「公平」って何なのか、教えてほしいよ。
そんな重たいテーマを、ブラスバンドが鳴り響くなか「ランランララララン」という明るいメロディを口ずさむことでオブラートに包んで、暗く重たくなりすぎないように努力しているように見えるこの「黄金律」という曲。
「黄金律」というタイトルが素晴らしいですね。
他人から自分にしてもらいたいと思うような行為を、人に対してせよ
相手を基準にしたら、何が正しいかなんてわからない。相手のために行った行為が相手の感情を逆なですることもあるし、相手の気持ち次第でいくらでも受け取り方が変わってしまう。
そもそも、自分が伝えたいと思ったことが、色々な理由で曲解され、ねじまげられ、相手の都合のよいように扱われてしまうことだってある。
そんな世の中で自分の正義感、自分の心を保ち続けるためには、皆がみなの「黄金律」を持つしか無いんだよ、と言っているように聞こえます。
僕は、さだまさしさんの世の中に対する隠しきれない「怒り」みたいなものを感じる曲です。
昨年発売された「Reborn」というアルバムの中では個人的に印象的な曲でもあり、同時に、曲全体としては収まりが悪く完成度が低い、歌詞も抽象的な歌だなという印象を持ちます。
とはいえ、具体的な人たちの姿は、今までの数々のさだまさしの歌のなかで描かれている、という言い方もできます。
「ある日海の向こうから幸せがやってきて」君を連れて行ってしまうのを、心の優しさから見送ってしまう人の歌もあります。
逆に、「連れて行くのを止めてしまった」結果、君の幸せを奪ってしまったのではないかと告解する歌もあります。
「怪我の重い人から順番に手当をする」ために、病室に残された老人に寄り添う若者の姿を描いた歌もあります。
この「黄金律」は、さまざまな人生の生き方、歩み方を考えるための、インデックスみたいな曲だな、と個人的には最近感じています。
道歌入門
作者の岡本彰夫さんは、かつて春日大社の宮司を務められていた方のようです。
「道歌(みちうた)」とは、道徳的な和歌、を指すとのことです。
岡本さんが、「お説教」の中で語られた道歌に心惹かれたものの、書籍などでまとまって収蔵されているものが少ないことに一念発起してこのような書籍を上梓したようです。
心惹かれた道歌としては、以下の歌が紹介されていました。
欲深き 人の心と 降る雪は 積もるにつけて 道を忘るる
日常になぞらえた例えとして理解が平易ですし、それなりに深みを感じる歌ですね。
このような道歌が多数収蔵されているのが当書ですが、かなり易しい言葉で書かれている本なので、小中学生でも内容が理解できるくらい平易だと思います。また、見る人によっては人生の真理というよりは通俗的な道徳だなと感じるものもあるとは思います。
それでも、拾い読んでいると、心に残る一首、というものにたどり着ける本かなと思います。
個人的に気に入った歌をいくつか引用しておきます。
へつらはず おごることなく 争はず 欲をはなれて 義理をあんぜよ
「義理をあんぜよ」は、義理を大切に、という程度の意味のようです。
諂う事も奢る事もなく、そして他者と争わないようにいるためには、自分が力を付け自分に自信を持ち、常に求められる以上の価値を生み出していくことが必要になります。日々努力を続けるための心がけ、という感じですね。
幾度か 思ひ定めて かはるらむ 頼むまじきは 心なりけり
人の心が一番信頼できない、移ろいやすい、という歌です。
見む人の ためにはあらで 奥山に おのが誠を 咲く桜かな
桜は、見てくれる人がいるから咲くんじゃないんだよ。奥山に誰にも知れずひっそりと咲く桜も、自分が咲きたいから、咲くんだよ、という歌。今回読んだ中で、一番好きな歌です。
世の中は 人は知らねど 科あれば 我が身を責むる 我が心かな
自分が行ってしまった悪いこと、秘密の罪科は、誰に知られずとも、自分は知っている。悪いことをしてしまったら、どこかで誰かが必ず見ている、だって自分が見ているでしょ、と諌める歌です。
骨かくす 皮には誰も 迷ひけむ 美人といふも 皮のわざなり
顔立ちの美しい人に惑いがちだけど、その美人を作り出すのも所詮は皮膚の仕業ですよ。だから内面を大事にしましょうよ、という歌です。「皮」という表現に切り捨ててるケレン味の無さ、シャレの効いている感じが良いですね。
はるばると あだちが原へ ゆかずとも こころのうちに 鬼こもるなり
安達ケ原は、鬼の住処、と呼ばれている場所のようです。あえてそんなところに出向かなくても、鬼は人の心に住んでいるよ、という歌。
偉人というのは、市井に潜んでいる
ラジオでライブを聴いてました。
さだまさしは歌の世界観は好きですがトークはそこまで好きではありません。
しかしたまに、聞いていてハッとさせられるような鋭い意見を言うことがあります。
2018年も最後、年越しの曲を歌う前のトークで語られた以下のような内容は、僕が最近もやもやしていたことを正確に切り取ったかのような発言でした。
偉人というのは、市井に潜んでいる。我々の隣に暮らしているんです。本当に偉大な人ってのはね。
僕らは、人間が偉大だという時に、うっかりするとね、有名だとか、お金持ちだとか、そんな事で人を測ってしまう。それはね、その人の「影」なんです。「影」を褒めても仕方がないんです。
本当に褒めるべきは、その人の「実体」。つまりね、光源、光の源の近いところに立てば、「影」は大きくなるんです。光から遠く離れているところに立っていれば、「影」は小さくなる。そんなところで測っちゃいけないんです。
私達は、もっともっと自分たちの姿を、もっとちゃんと自分たちで評価しなくちゃいけないと思います。
「影」ではなく「実体」を見るべき、という言葉は、本当に心からその通りだなと思わせる発言でした。
データ階層社会のその先に、を考えるのに役立つ二冊。
2018年12月1日号の東洋経済の特集は「データ階層社会」でした。
アリババの芝麻信用や、日本でも取り組みが増えてきた情報銀行などの個人の格付けをビッグデータ・AIの力で管理する仕組みが普及する事により訪れる未来について、主に悲観的な内容を中心に描かれてました。
この特集記事もなかなか読み応えがありました(過去の雑誌なのでバックナンバーを入手する必要がありますが)
ここでは、その特集の中で引用されていた書籍二冊について、かんたんにメモを残しておきます。
空いた時間を使って3日くらいかけて読みました。
読後感としては、テクノロジーの進化により何が起こるか、その思索を深めるためにも、業界に関わる人間としては目を通しておいても損は無いかなと思います。
星新一『声の網』
1970年に書かれたらしい長編SF。
今風に表現すると、高度なコンピュータの監視システム/推薦システムにより人々の生活が監視され、問題が起こりそうになった時に「コンピュータが考える」ふさわしい未来に誘導される、という人々の様が描かれてました。
人間が意識する/しないに関わらずコンピュータに従う事が強制され、従うことで皆がほどほどに幸せで、日々平和に過ごせる姿が描かれているのに、読後感としては「ディストピア」としか捉えられない薄気味悪さがある本です。
そして、50年前に書かれた本だというのに、今読んでもまったく違和感なく「近未来」の姿として捉えることができ、星新一の彗眼・想像力には驚かされます。
ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』
『サピエンス全史』の著者の新作。
サピエンス全史は人類の歴史を紐解いていましたが、ホモ・デウスではコンピュータテクノロジーや生命科学の発展によりこれから人類がどのような道を歩むかについて描かれています。
サピエンス全史は極めて知的な本でしたが、ホモ・デウスも600ページ近くあるのに無駄な一文が少なく、極めて情報量の濃い本でした。
ホモ・デウスの本全体としては「宗教」「神」をどう捉えるかがキーになりますが、テクノロジー関連についての言及で要点を抜粋すると以下のような感じです。
- コンピュータアルゴリズムの発展により人間の単純作業が奪われ、コンピュータに代替できないごく少数のエリートと、「無用者階級」に人類は分断される。かつ高度なアルゴリズムは一部の権力者・企業により独占される。
- 生命科学の発展により、医学のトレンドは「病気を治す」から「人間の能力をアップグレード」する方向に進化する。前者は人類全体へ恩恵を与えるが、後者は一部のエリートにより独占され、恩恵を受けられない人との圧倒的な格差が生まれる。
- それらにより、人類史上かつてない階層社会が生まれる。
我々は日々、GAFAや中国の企業がビッグデータとAIを駆使して人類を超越するかのような社会を築きつつあるのを眺めています。
そういう肌体験も加味して、『ホモ・デウス』書かれている事はもうすでに現実世界で部分的に実現されているように思え、そら恐ろしく感じました。
炭太祇
さだまさしさんのコンサートツアーのトークの中で、炭太祇(たんたいぎ / たんのたいぎ)の句が紹介されていました。
江戸時代の人で、京都の島原(遊郭)に庵を開いた酔人で、与謝蕪村にも大きな影響を与えた人、というのはさだまさしのトークの受け売り。
死なれたを 留守と思ふや 花盛
という歌が、トークの中では紹介されていました。
さだまさし流の解説だと、トークの中で語られていたことは記憶している限りでは以下のような感じ。
「仲の良い親友が居た。家の庭には桜の木が植えてあって、これを見ながら一献交わすのが楽しかった。あるときふっと死んでしまって、夏が過ぎ秋が過ぎ、冬が過ぎ、また春になって桜の木が咲いても親友は居ない。寂しいなぁ、と思ったけれど、そうだ親友は旅に出た事にしよう。なんだ、こんなキレイな桜が咲いているのに旅なんか出てしまいやがって、早く帰ってこいよ。」
そんな風情を、両親が亡くなってしまった長崎の風景と重ねて、さだまさしは紹介していました。
炭太祇の作品をいくつか流し読みしてみましたが、彼の作品は誰に聞かせるでもなく、平易な言葉で日常のよしなを俳句として表現していた人のようで、ちょっと微笑ましくて「クスッ」と笑ってしまうような俳句が多いです。
足が出て 夢も短き 蒲団かな
寒い夜に足を出して寝たら寒いですよね。笑。
永き夜を 半分酒に 遣ひけり
夜長を、酒を浴びながら過ごす。無駄な時間とも言えますが、人生の弛緩というか理を表しているようにも思えます。
声真似る 小者をかしや 猫の恋
多分、気に入っている猫がいるんでしょうね。その猫の気を引くために、猫の声真似をして誘ってみる。その自分を客観視した視点がまたほのぼのとした郷愁を誘います。
さだまさしさんが「炭太祇は与謝蕪村に影響を与えた」とトークで話してましたが、与謝蕪村も後世の大作家に影響を与えています。その一人が萩原朔太郎。
「郷愁の詩人 与謝蕪村」というタイトルの小説というか、与謝蕪村の詩を紹介する文章が青空文庫にありました。
この中でも、炭太祇は登場しています。
蕪村の性愛生活については、一ひとつも史に伝わったところがない。しかしおそらく彼の場合は、恋愛においてもその詩と同じく、愛人の姿に母の追懐をイメージして、支那の古い音楽が聞えて来る、「琴心挑美人」の郷愁から
妹が垣根三味線草の花咲きぬ
の淡く悲しい恋をリリカルしたにちがいない。春風馬堤曲に歌われた藪入の少女は、こうした蕪村の詩情において、蒲公英の咲く野景と共に、永く残ったイメージの恋人であったろう。
彼の詩の結句に引いた太祇の句。
藪入りの寝るやひとりの親の側そば 太祇
には、蕪村自身のうら侘しい主観を通して、少女に対する無限の愛撫と切憐の情が語られている。
蕪村は自ら号して「夜半亭蕪村」と言い、その詩句を「夜半楽」と称した。まことに彼の抒情詩のリリシズムは、古き楽器の夜半に奏するセレネードで、侘しいオルゴールの音色に似ている。彼は芭蕉よりもなお悲しく、夜半に独り起きてさめざめと歔欷するような詩人であった。
白梅に明くる夜ばかりとなりにけり
を辞世として、縹渺なき郷愁の悲哀の中に、その生涯の詩を終った蕪村。人生の家郷を慈母の懐袍に求めた蕪村は、今もなお我らの心に永く生きて、その侘しい夜半楽の旋律を聴かせてくれる。抒情詩人の中での、まことの懐かしい抒情詩人の蕪村であった。
藪入は、盆の季節に何日かお暇をいただき故郷に帰省をすることを指すようです。
故郷に帰り、一人の親、父か母か、風情で言うとどうしても母親になるでしょうか。その隣で寝転がりながら、故郷や親を懐かしむ、そんな情景が浮かんできます。