炭太祇
さだまさしさんのコンサートツアーのトークの中で、炭太祇(たんたいぎ / たんのたいぎ)の句が紹介されていました。
江戸時代の人で、京都の島原(遊郭)に庵を開いた酔人で、与謝蕪村にも大きな影響を与えた人、というのはさだまさしのトークの受け売り。
死なれたを 留守と思ふや 花盛
という歌が、トークの中では紹介されていました。
さだまさし流の解説だと、トークの中で語られていたことは記憶している限りでは以下のような感じ。
「仲の良い親友が居た。家の庭には桜の木が植えてあって、これを見ながら一献交わすのが楽しかった。あるときふっと死んでしまって、夏が過ぎ秋が過ぎ、冬が過ぎ、また春になって桜の木が咲いても親友は居ない。寂しいなぁ、と思ったけれど、そうだ親友は旅に出た事にしよう。なんだ、こんなキレイな桜が咲いているのに旅なんか出てしまいやがって、早く帰ってこいよ。」
そんな風情を、両親が亡くなってしまった長崎の風景と重ねて、さだまさしは紹介していました。
炭太祇の作品をいくつか流し読みしてみましたが、彼の作品は誰に聞かせるでもなく、平易な言葉で日常のよしなを俳句として表現していた人のようで、ちょっと微笑ましくて「クスッ」と笑ってしまうような俳句が多いです。
足が出て 夢も短き 蒲団かな
寒い夜に足を出して寝たら寒いですよね。笑。
永き夜を 半分酒に 遣ひけり
夜長を、酒を浴びながら過ごす。無駄な時間とも言えますが、人生の弛緩というか理を表しているようにも思えます。
声真似る 小者をかしや 猫の恋
多分、気に入っている猫がいるんでしょうね。その猫の気を引くために、猫の声真似をして誘ってみる。その自分を客観視した視点がまたほのぼのとした郷愁を誘います。
さだまさしさんが「炭太祇は与謝蕪村に影響を与えた」とトークで話してましたが、与謝蕪村も後世の大作家に影響を与えています。その一人が萩原朔太郎。
「郷愁の詩人 与謝蕪村」というタイトルの小説というか、与謝蕪村の詩を紹介する文章が青空文庫にありました。
この中でも、炭太祇は登場しています。
蕪村の性愛生活については、一ひとつも史に伝わったところがない。しかしおそらく彼の場合は、恋愛においてもその詩と同じく、愛人の姿に母の追懐をイメージして、支那の古い音楽が聞えて来る、「琴心挑美人」の郷愁から
妹が垣根三味線草の花咲きぬ
の淡く悲しい恋をリリカルしたにちがいない。春風馬堤曲に歌われた藪入の少女は、こうした蕪村の詩情において、蒲公英の咲く野景と共に、永く残ったイメージの恋人であったろう。
彼の詩の結句に引いた太祇の句。
藪入りの寝るやひとりの親の側そば 太祇
には、蕪村自身のうら侘しい主観を通して、少女に対する無限の愛撫と切憐の情が語られている。
蕪村は自ら号して「夜半亭蕪村」と言い、その詩句を「夜半楽」と称した。まことに彼の抒情詩のリリシズムは、古き楽器の夜半に奏するセレネードで、侘しいオルゴールの音色に似ている。彼は芭蕉よりもなお悲しく、夜半に独り起きてさめざめと歔欷するような詩人であった。
白梅に明くる夜ばかりとなりにけり
を辞世として、縹渺なき郷愁の悲哀の中に、その生涯の詩を終った蕪村。人生の家郷を慈母の懐袍に求めた蕪村は、今もなお我らの心に永く生きて、その侘しい夜半楽の旋律を聴かせてくれる。抒情詩人の中での、まことの懐かしい抒情詩人の蕪村であった。
藪入は、盆の季節に何日かお暇をいただき故郷に帰省をすることを指すようです。
故郷に帰り、一人の親、父か母か、風情で言うとどうしても母親になるでしょうか。その隣で寝転がりながら、故郷や親を懐かしむ、そんな情景が浮かんできます。