約束の町
人と書いて 夢と書いて 儚いと読む夜があるんだ
(さだまさし「約束の町」)
僕はさだまさしの詩は好きですが、それほどトークは好きではないです。
ただ、コンサートに行くと以下のような事を話すことがあり、これは本当に感銘を受けます。
「少ないメンバーで少ない音で表現する、これは一人ひとりの演奏者が自分の音に責任を持つということで、けっして楽ではないんです。」
「これだけ長くコンサートをやってきて、今日何回目だっけ(スタッフの人に声をかけて)、ソロコンサートで42xx回目だそうです。それ以外にグレープ時代に400回やってますから、、まあそれくらい長くやっています。こんなに長くやっている理由は、もちろん借金をしたからでもあるけど(会場笑い)、あ、これはちょっと前に返したから安心して(笑い)。」
「長くやってるのは、やっぱり好きなんだな。そして、もっと上手になりたい。音楽を続けていく限り、少しでも昨日より上手になっていたいなと思います。もうこの歳になると、エスカレーターに逆向きに乗るようなものです。放っておくとどんどん後ろに下がっていってしまう。全力で駆け上がってやっと同じ高さにいられる。若い頃のように2倍の速さで前に進むことはできないから、どんなに頑張っても1.x倍くらい、ゆっくりづつしか前に進めないけど、それでも上手くなりたいなと思って今日も歌っています」
努力の結果、自分の理想に近づいたと思う時もあるし、やりきった結果ある程度の高みに達することも誰しもあると思います。
でも、儚いなと思うのは、自分でやりきったと思っても他の人が軽々と追い越していくこともあるし、ただの井の中の蛙であることもあるし、実際高みに達していたとしてもちょっとでも歩みを止めるとたどり着いたはずの場所から遠ざかってしまう。
歳を取るごとに、人生は単純な足し算ではなくなっていきます。
真面目に努力して積み重ねてきた人であればあるほど、以前身につけた能力や自然に備わっていた力が時間が経つに連れて失われていく儚さと直面することになります。
昔は何も考えずに新しいことに体当たりできていたのに、辛い思いをするんじゃないかとか、恥をかくんじゃないかとか、余計な心の澱が邪魔をして一歩足を踏み出せないことも多くなります。
自分が身につけたものを守ろうと思っても、歳を取るごとに様々な物を手に抱え、日常の忙しさに流されて撤退戦すらままなりません。
本当に人生は短くて、そのことを理解しているのに日常の些事に忙殺され、うまく生きていくという事すらとても叶わないなと感じる日々です。
僕みたいな凡人でも感じるような、こういう人生の儚さ。一生懸命生きている人ほど強く感じるのではないかと思います。
それでも、さだまさしのように、どんなに歳を取っても前に進むことを止めない先人がいることは、一筋の希望であり、道標になります。
遠いのは距離ですか それとも心ですか
本当に。自分がどこに進みたいと思っているのか、どこにたどり着きたいのか、かつて胸にいだいていた夢や希望を燃やすこともなくしまい続けていないか、そんな事を有耶無耶にせず、誰のせいにもせず、自分に責任をもって生きていかないといけないなと思います。
そして、出来る限り一歩でも、自分がなりたかった自分になれるよう、歩む。そんな生き方ができれば少しはこの人生にも意味が生まれてくるのかなと思ったりします。
誓うことはたやすいこと 叶わないのもよくある
ただ嘘にならないよう 走り続ける生命もある