体調不良との戦い
僕は数年前、扁桃腺炎が頻発して、一ヶ月に1回は40度を超える高熱が出て苦しんだ時期があります。
ちょっとでも疲れが溜まると喉が熱を持ち、一度熱がでてしまうと1週間は苦しむことになる。そして熱が熱なので体への負担も大きく、まれに意識障害や呼吸障害を引き起こしてしまいます。
なので、体に負担をかけないように、以下のような事を今思うと結構自分に厳しく課していました。
- 絶対にお酒を飲まない
- 疲れすぎないようにする(必ずxx時には帰る、夜更かしはしない、夜に開かれる飲み会や懇親会には絶対出ない等々)
- 飛行機や新幹線など密室で長距離移動が強いられそうな乗り物に乗らない
かなり神経を使い、コントロールした生活をしてても、ちょっと油断すると1ヶ月に1回は高熱が出てしまう...解熱には基本的に抗生物質を使って扁桃腺に付着していると思われる細菌を殺すしかなく、熱が出れば出るほど効く抗生物質が限られてきてしまう。
このような生活を1年以上繰り返したうえ、最終的には手術による切除を選択しましたが、社会復帰できるまで場合によって 1ヶ月近くかかるため、僕はこのタイミングでその時勤めていた会社を辞めました。
実際には辞めざるを得ない状況になったということが正確です。上記のように病気に悩んでいること、闘病生活の苦労、手術が必要な事等々をその時の上司に伝えたら
「普通に働けているんだから健康でしょ?」
「最近お前がやる気がなくなってきたって感じている」
という風に返され、会社の仕事のために色々な事を我慢しながら踏ん張っていたことが一切無意味だと気づき、自分の体調を最優先させるために辞めました。
なお、上記は2010年に起こったことです。
扁桃腺を切除することはネット上ではいろいろ有る事無い事書かれていて、特に Welq は書かれていることが結構間違っているような気がしますが、僕の場合は切除後は苦しんでいた症状が再発することもなく、健康に気を使うようになったこともあり風邪や熱が出ることがだいぶ少なくなりました。
とはいっても子供のころから、ちょっと暴れては高熱を出す子供だったので、今もあまり体は強い方では無いと思います。
上記のような経験もあり、自分の体調を安定してキープするために、以下のことはかなり気をつけています
- 不要な飲酒はできるだけ避ける。できれば飲まない。
- 適度な運動を継続して行う
- 睡眠時間を必ず確保する
- できるだけ疲れを溜めないような生活を心がける
どれかが一つでもバランスが崩れると、僕は今でも体調を崩すことがあります。
体調不良により働くことを継続することが難しいと、残念ながら退職の道を選ばれる方がいたりします。そういう方が居た時に、僕は「自分で何かできたことがあったのではないか」と自問自答することが多いです。
たとえば、相手が体調不良を抱えていて闘病をしていたのに、そのことを踏みにじるような軽口を本人に話していたりしたのではないか、とか、もっと気を使って話せたのでは、短い時間でも寄り添うことができたのではないか、とか。
一方、「体調不良」を言い訳に、自分の責務を放り出す人のことは、これ以上ない哀れみを感じてしまいます。
別の事情があってそのことをしない、もしくは会社を辞めるのであれば、その通りに話せば良いのに、「体調不良」を言い訳に使うのは、本当に自身の体調不良と戦っている人達を愚弄し馬鹿にしているように思えます。
そして、そのようなことですら自分の本心・本音に向かい合い、そのことを相手に伝えない人なんだ、不誠実な人なんだ...そんなレッテルを周囲の人に与えてしまいます。
たとえば、体調不良な時期の僕の習慣にも書いたように、体調が悪い時には普通お酒は飲みません。なぜなら、飲酒は体の免疫力を基本的に下げる行動なので、ただでさえ体に弱いところを抱えている人が飲酒をするのは自傷行為です。
だから、本当に体調不良を抱えている人は、その時にお酒は飲みません。
「体調不良〜」と言っておきながら、その療養期間中にお酒を飲んでいる人がいたら、基本的にはその人は嘘をついていると思って良いと思います。嘘をとりつくろおうとして失敗した、それも「体調不良」を自称しつつも実際に病気と対峙したことがないからそんな基本的な事が理解できない......
そういうことから、その人の不誠実さは露見していき、周りの目というものも変わっていってしまうのだと思います。
とはいえ、本当は体調不良でも何でも無いのに、そのフリをしなければいけない人は、本当に不幸だと思います。嘘をとりつくろうためにさらに嘘をつき、心に重荷をつねに背負っていく。もしくは誰も指摘しないことを良いことに開き直り、また心が純真さを失い、鈍感になっていく。
どちらも、個人的にはとても不幸なことだと思います。優劣を付ける問題ではないですが、病気になるより、上記のように嘘をつきつづける人の方が、僕ははるかに不健康な人だと思ったりします。
TFP
伊藤元重さんの『どうなる世界経済〜入門国際経済学〜』という本を読みました。慶応大学での講義内容の再録的な本ということで、講義形式で分かりやすく、現在の経済学の比較的王道な見方について中立の立場で解説してある本という印象です。
この本の中で生産性を語る文脈の中で「TFP (Total Factor Prouctivity)」という指標が取り上げられていました。日本語に訳すと「全要素生産性」で、資本と労働の投下以外の理由で生産性が向上する(もしくは低下する)事象を観察するために主に用いられる指標ということです。
上記 RIETI のサイトの内容に従うと、一般的な生産性は「生産物 / 労働投入」で計算をする。上記新書の解釈では、労働投入とは「資本と労働」の投入量を指す。
TFP は「生産量 / 全生産要素投入量」で計算するようです。上記新書の解釈では「資本と労働」以外のすべての要素(もしくは資本と労働以外の要素)を含んだものを指す。
RIETI のサイトのケーススタディでは製造業と繊維産業の TFP の比較が挙げられており、製造業が右肩上がりに対して繊維産業は低迷していて、これは一般的な生産性の観点における資本投下とは別の軸でたとえば技術的な進歩などの有無の差がこの差につながっている、とのことでした。
便訓
最近、「さだまつり」的なイベントをしていた某古本屋店で安値で見つけてきた『二小節の詩』という30年以上前に発売された"さだまさし"のエッセイ本?に、以下のような文章が書いてあって笑い転げてしまった。
さだまさしについて、常識を重んじ、堅く暗い世界観を歌い上げる、そんな人と思っている人は、色々な意味でイメージが変わりそうである。
『便訓』
厠(はばかり)なるもの、もとより古き思考(しっこ)や空想(くそ)を水に流し
神にすがり神に和す即ち神和屋(かわや)也
常に美しきを保ち神を切らすべからず
而して神に見放されし者、自らの手で運(うん)を掴め!!
格調が高いように見えて、小学生のような無邪気さでうんこの話しかしていないのが素晴らしい。
『二小説の詩』は、さだまさしのトークや文章などで語られたフレーズの断片を切り貼りして載せている本ですが、それらの言葉の断片に、彼が紡ぐ歌ほどの普遍性や高みは見られないように見えます(若気の至りに見える)
とはいえ、こういう小粋な文章があったりと、なかなか味わい深い本でした。
欧派
なにかで見かけた中国語のスラングで、「欧派」というのがあった。
普通に欧州風とかそういうふうな意味かと思ったら、「おっぱい」の意味らしい。
欧派,来源于日语おっぱいoppai的音译,即指胸部咪咪。
たしかに読みは "ou pai" で、日本語のおっぱいに近い。
おばさんのことを「欧巴桑 ("ou ba sang")」と読んだりと、中国語において日本語に対して当て字をつけることは一昔前からある程度普及している言葉遊びではあります。
しかし「欧派」はあまりにもありふれた単語なため、どうしてこの言葉にしたのか的な感慨があります。
世間には「欧派」("おっぱい"という意味でないほう)という単語がありふれていて、この雑学を入手してしまうと以下のようなサイトを正視できなくなります。
「関ジャム」さだまさし出演回で作られた即興曲
とりあえず、メモ書きとして。
一曲目。ビルの解体映像に寄せて
Fmaj7
止まらないはずのCmaj7
僕の夢をDmy G7 Cmaj7
止めるのは 僕自身だろうDm Em Dm G7
止まるな 止まるな 止まるな 止まるな
二曲目。東南アジアと思われる国の、満員電車の映像に寄せて
G Am7
ふるさとは どこですか?Bm7 E7 Am7 D7
遠い町でしょうか?G Am7
遠いのは 距離ですか?
Bm7 E7 Am7 D7それとも心ですか?
C G
生まれた町だけを ふるさとと呼ばないAm7 Am7/G D7
今住む町を 何と呼びますか?
個人的な感想だと、一曲目の方がいろいろと練り込まれてよくできているなと感じます。
爆破により崩壊していくビルの映像に対して「止まるな」「止まるな」と語りかける。しかしそれは破壊され崩れ行くことに対して「止まるな」と述べているわけではなく、ビルの崩壊が自分自身の夢が壊れていく、自分の夢が止まる、という意味の比喩であり、壊れていくのを必死に止めようとする気持ちとして「止まるな」と語りかける。
この辺の映像と言葉のギャップを巧みに操った言葉の紡ぎ方は、まさに匠の業と言わざるを得ません。
二曲目は、曲としての耳障りはこちらの方が良いですが、さだまさしが長年テーマとしてきた「ふるさと」をテーマとし、今までの作品にもあったようなフレーズと歌詞が紡がれています。「〜ですか?」と問いかけを重ねる歌詞の紡ぎ方も良くあるパターンで、「〜ですか?」を重ねるとそれだけで自然に韻が踏めるので手堅い方法ではあります。
そういう意味で安心感があり、逆にチャレンジが足らないとも言えたりするかもしれません。
まあ、即興で10分で作られた曲に対してそこまで注文をつけたり品評をすることに意味があるとも思えないですけど。
とはいえ、番組の中でも皆が関心していた「今住む町を何と呼びますか?」というフレーズは、たしかに心に響くフレーズです。
さだまさしの何より凄いところは、もう大御所と呼ばれて差し支えないだけのキャリアを重ねてきているのに、未だに生放送の番組にこだわったり、こういう即興にこだわったり、今その時の実力がシビアに評価されるやり方に体一つで飛び込んでいけるその気持ちの強さだな、と思います。そして大半の大衆を納得させるだけの結果を見せる。
伝説の向こう側に逃げ込むことも可能なのに、いまだにチャレンジ精神を失わず、シビアな環境に身を置く、そんなさだまさしの姿は、とても格好良い。こんな格好良いおじいさんになりたいな、とつくづく感じます。
「遙かなるクリスマス」とピエロとしてのさだまさし
久しぶりに生でさだまさしの歌をコンサートで聴いてきましたが、この「遙かなるクリスマス」という歌は、今の「月の歌」ツアーで、印象的なシーンで歌い上げられます。
今まで数多くのコンサートで耳にはしましたが、今回の「月の歌」ツアーでの演奏は身震いがするほど完成度が高く、特にバイオリンの藤堂昌彦の演奏するフレーズは心を震わせるものでした。
この歌は、僕があまりさだまさしに興味がなかった時期に発表された歌なので個人的には実感がなかったのですが、発表年は2004年、もう12年前、9.11 のあとの理由なきイラク侵攻をアメリカを中心とした国々が行っていた時期に発表された曲ですね。それから十数年の年月を経て、過ぎた年月により変化した社会情勢によって歌われる言葉の鋭さは磨かれ、歌の価値が劣化するどころかより胸に突き刺さる鋭さを磨いてきているような気がします。
一度聴いてみるとわかるのですが、この歌で歌われているフレーズは、それこそ今、世界が様々な価値観の衝突の最中で混沌を極めている 2016年の姿を歌っているかのような歌になっています。
僕達のための平和と 世の中の平和とが少しずつずれ始めている
独裁者が倒れたというのに 民衆が傷つけ合う平和とはいったいなんだろう
いつの間にか大人達と子供達とは 平和な戦場で殺し合うようになってしまった
僕は君の子供を戦場へ送るために この贈り物を抱えているのだろうか
しかしこの歌は2004年に作られた歌です。いかに聡明なさだまさしといえども今の社会の情景を詳細に把握したうえでこの作品を作ったわけではなく、その時に感じていた違和感や憤りというものを歌に昇華した結果、時代が不幸にも追いついてきてしまった、というのが正確な表現なように思えます。そして、もちろん、作り手として、そのような時代が訪れることは希望していないでしょう。
さだまさしは、「僕は時流の反対に張りつづける」という事を昔のトークでよく述べていました。Aというものが流行しているのであれば、その反対の価値観であるB、もしくは無関係なCというものをあえて主張してみる。と。
フェミニズム的な価値観が広く普及し始めてきた1980年代に向けて、「関白宣言」というその当時古めかしい価値観になりかけた男尊女卑的な歌を歌い上げたのもそういうった「時流に逆らう」という気概から生まれたと言っていいでしょう。
昨年映画化されて話題になった「風に立つライオン」も、日本がバブル景気で浮かれまくっていた時期に作られた曲で、だからこそ
やはり僕達の国は 残念だけれど 何か大切なところで 道を間違えたようですね
というフレーズは当時の世相に最大限反抗する気概のあらわれで、かつ多くの人がその当時には共感するのが難しい価値観だったと思います
(発表当初の1980年代には一切この曲は売れなかったらしい)
それでも、日本の景気が長期に渡り落ち込み、中国に追い越され、沈没がはっきりした時にこの曲が改めて脚光をあびるということを、歌い手であるさだまさしが望んでいたかというと、そうとも思えません。
安保法制は実運用上は何重にも絡め取られた形だけのものですが、それでも隣国の強大化や政情不安低下により「戦争」という事象が現実的なものに近づいてきているという感覚を皆が共有し始めた時勢に、この「遙かなるクリスマス」という歌をコンサートで滔々と歌い上げるということの意味。
自分が歌い上げながらも望まない未来であった世界が、現実に近づいてきてしまったことに対する、最大限のアンチテーゼ、反抗なのでは無いか、と個人的には感じています。
「俺は時流にそうような歌を歌っていない。この歌のような価値観を皆が共有することが時流になるような時代は来てほしくない」と。
そして、そんな年に、「ワーストアルバム」なる奇っ怪なおちゃらけたCDを世に出してしまうということは、それもまた、彼としての時流に逆らう行動の一つなのではないかな、思ってしまいます。
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そんな彼の姿は、あたかも、彼自信が映画の主演作として演じた「翔べイカロスの翼」の主人公の姿、そしてその映画の主題歌「道化師のソネット」の情景に、重なるところがあります。
ヒビスクス
スピッツの「醒めない」を勢いで買って聴きまくっているのですが、個人的にアルバムの中で一番印象的な曲はこの「ヒビスクス」という曲です。
ヒビスクスはハイビスカスのラテン語読みのようです。
僕も歳を重ねるごとに、一番格好良い姿というのは、今まで築いてきたもの含め何もかも捨て去って丸腰になれる勇気、そしてその上で自ら前に進む勇気、そんなものだなと感じるようになってきました。
この歌は、スピッツらしく、ちょっと心の隅に恥ずかしさとか格好悪さとかを忍ばせながらも、それでも前に進む、という歌になっています。そういう情景が僕が抱えるイメージと非常にマッチし、自分に向けての応援歌のようにも聞こえます。
そして、実際に曲を聴かないとイメージが湧きづらいですが、サビからの高揚感が素晴らしいです。
スバルのCMソングとしても使われているみたいですね。しかし贅沢ではありますが、やはりこの曲は一曲通して聴くべき曲だなと思います。