アイ

見えない貧困

www.nhk.or.jp

 

見てました。

僕が子供の頃に直面した内容をおさらいするような内容で、なかなか他人視することができない内容でした。

 

剥奪指標

番組上で大きなテーマとして、「剥奪指標」(子どもたちがなにを奪われているか)という点について取り上げられており、剥奪指標には以下の3種があるとしていました

  • 物的資源の欠如
  • つながりの欠如
  • 教育・経験の欠如

つながりについては、お金に余裕が無い家庭ではどうしても親と子の交流が不足し、結果として子どもの人間関係が袋小路的になってしまうこと。

教育・経験の欠如としては、学習塾などに通わせることができないこと、などが上げられていました。

 

大田区子どもの貧困対策に関する計画

剥奪指標の調べ方について、首都大学東京が中心となって東京都を中心とした地域における「子どもの貧困」調査した内容について、大田区の事例について紹介されていました。

大田区側の資料は、以下のようなものになるでしょうか?

https://www.city.ota.tokyo.jp/kuseijoho/press/release28/20161202.files/172_20161202gaiyo.pdf

子どもからみた生活の困難を子どもに対してアンケートを取る、という方法で状況を行っていました。

一例を挙げると以下のようなもの。

以下の子どもとの経験や消費行動、所有物に関する 14項目に関して、経済的な理由で与えられていないとする項目が3つ以上あると回答した世帯

①海水浴に行く
②博物館・科学館・美術館などに行く
③キャンプやバーベキューに行く
④スポーツ観戦や劇場に行く
⑤毎月お小遣いを渡す
⑥毎年新しい洋服・靴を買う
⑦習い事(音楽・スポーツ・習字等)に通わせる
⑧学習塾に通わせる
⑨1年に1回程度家族旅行に行く
⑩クリスマスのプレゼントをあげる
⑪正月のお年玉をあげる
⑫子どもの年齢に合った本がある
⑬子ども用のスポーツ用品・おもちゃがある
⑭子どもが自宅で宿題をすることができる場所がある

剥奪指標の高い子どもは、自己肯定感や将来への希望などが持ちにくい、という話もされていました。

 

生活費をバイトで稼ぐ高校生

高校生になるとバイトでお金を稼ぐことが可能になるため、子どもの貧困が見えなくなる、というお話がありました。

番組上の例では、週四日働き、月7万円程度の金額を稼いでいる女の子の状況が紹介されていました。バイトがきつくて、学校を休んだり、勉強に身が入らないという状況も紹介されていました。

 

進学にかかる費用

貧困家庭でなくても、家にお金の余裕がなく、進学を諦める、もしくは奨学金や教育ローンなどで借金をして大学進学を目指す、という人についても触れられていました。

学校の成績がトップクラスだという女の子が、お金の工面に困り、先生に相談したところ教育ローンを紹介され、自分の将来を案じて崩れ落ちる、というシーンもありました。

 

 

僕の所感

以下は番組内容をうけての僕の所感です。

 

自分の境遇から。僕は父親がギャンブル狂で、外ではパチンコに生活費の多くを費やし、家では酒ばかり飲んでいる、という人でした。母親はそれにくらべてしっかりして、とても我慢強い人で、その御蔭で家庭はかろうじて崩壊することを免れていたきがします。とはいえ僕が高校生の時に離婚してしまいましたが...

そういう事情もあり、小学生に対する上記14項目のアンケートについて、3つ以上当てはまれば「剥奪」されている子どもということですが僕はまさにそのような子どもだったようです。そして高校入学と同時にバイトを週3~4程度で始め、学費とか生活費などを自分で払っていました。母親の目が届いていればそのようなことは絶対させなかったのでしょうが、当時は毎日のように父母が喧嘩をしていて、無政府状態だったので...

 

とはいえその状況を以て自分自身が恵まれてないかわいそうな人だ、と当時思っていたかというとそうでもなく、それなりに日々明るく生きていたような気がします。

「剥奪された」という感覚も、あまりなかったような気がします。

 

この番組に描かれていたような内容、そしてもしかしたら僕のような境遇、が良いこととは思いませんが、以下のような事を感じてしまいます。

 

情報が多すぎるのではないか

僕の時は、今のようにネット上に情報が遍く存在しているような時代ではなかったので、様々な情報を手に入れることは難しく、結果、自分の立ち位置というものを正確に理解することはできてなかったように思えます。その結果、絶望もしませんでしたし、かなり今から考えると楽観的に過ごせていたように思えます。たとえ根拠の無い自信だとしても。

今は、スマフォがあれば、いくらでもインターネットのリソースにアクセスできて、自分の境遇について正確に理解できてしまうのかもしれません。ネット上の真偽不明の噂話に心をざわつかせることも多いかもしれません。

情報が多すぎると、自分で考える範囲が狭まり、多くの選択肢から「より正解に近い」選択肢を選ぶ作業に終始してしまう気がします。その結果、「貧困は良くない」という価値観に触れることで、自分が貧困に置かれていることに極端に負い目を感じ絶望してしまうこともあるかもしれません。

 

見えない貧困と言うが、もともと見えてない、もしくは見る気も無かった世代がいたのでは

僕自身ももしかしたら今回のNHK特集が定めるような「貧困」の定義に当てはまっていたのかもしれませんし、正直僕よりもさらに辛い境遇に置かれているような人も中学生の頃には同級生にいたりしました。

しかし、彼らや私に当時の教師や行政が手を差し伸べていたかというと、そのような事は一切なかったように思えます。

今でもよく覚えているのは、大学進学時、僕自身の学力ならもっとずっと偏差値の高い、誰でも知っている有名大学に行ける状況だったのに、学費などの関係で水準をだいぶ下げて大学を選ぶことになりました。もっともその直前まで高校卒業後にすぐ就職をする算段をしていたので、それに比べれば大学に行けるだけでも幸せだと思ってました。

その状況を知った担任教師は僕に「もったいない」「馬鹿じゃないの」とだけ投げ捨てるように僕に言い放ちました。

「じゃあ、僕に学費出してくれるの?金銭的な援助をしてくれるの?」と聞きたかったですが、無駄なので適当にその場はあしらいました。

 

今は相対的に昔より日本が貧しくなり、その結果「貧困」の枠にはまってしまう人が増えてきたから、こうして社会問題化されているという側面があるとは思います。しかしその状況は、昔から存在し、そして昔は見て見ぬふりをしていた。

そういう貧困層が当時は少なかったからかも知れないし、その当時は国にお金があって国民負担が少なくてすんだから困らなかったからかもしれないし、「自助努力」の一言で片付けられる時代だったかもしれません。

その当時に親だった世代の人のそのような感覚や経験値が、今や社会の上層にたどり着いた、もしくはリタイアして悠々自適の生活をしている人たちの感覚なのではないかと思っています。なので、行政的な改革もなかなか進みづらいのでは無いかと思います。

(絶対に、自分たちの福祉を削って、子どもたちに回せ、というような発想にならない)

 

真の貧困はどこにある

僕が自分自身を貧困と感じなかった理由を箇条書きで挙げると以下のようなものかなと思います。

  • (ある意味余計な)社会についての常識やあり方を教えてくれる大人の欠如
  • 母親の愛情
  • 自分自身がお金をかけてもらってもないのに勉強がそこそこ出来た
  • 都心近くに住んでいた

家にはお金は無かったですが、幸いにも中学生のころまでは母親の愛情を常に感じることのできる環境で育ったため、何を買ってもらわなくても、どこに連れて行かれなくても、寂しさを感じることは特にありませんでした。

そのことをあげつらう意地悪な大人があまり周りに居なかったことも、幸せだったような気がします。

そして、都心というか川崎市の北部ですが、電車でどこにでもアクセスできる便利な場所に済んでいたので、お金はなかったかもしれないですが能動的に様々な経験をすることができる環境だったのが大きい気がしています。大学進学後も半分くらいの期間は自宅から通うことができたので、金銭的負担も限定的にすることができたのも大きかったです。

 

地方都市や、農村部で、貧困と呼ばれる環境に置かれた場合、その子どもを救済する手段はどの程度残っているのでしょうか?

行政にも金が無い、様々な情報を体験するためのアクセス手段がない、とした場合、地域で支えるにしても大人もおらず老人だらけ、かつ老人に「金を回せ」という声が大きい。

家庭の問題と捉えすぎ、家庭でなければ行政の問題だと捉えすぎ、子どもたちに遍く普遍的に提供できる社会インフラについて目があまり行っていないように思えること、都市部と田舎の格差にあまり目が行っていないように思えることに、若干不安を感じてしまいます。

 

 

この辺のテーマは非常に幅広いので、 全体的に網羅するのは大変ですが、僕個人が気にとまったところだけ散文的に記載しました。

 

 

生きてることが辛いなら

もう 10 年ちかく前になりますが、森山直太朗の「生きてることが辛いなら」の歌詞が、自殺を幇助するとして大炎上しました。

www.youtube.com

生きてることが辛いなら

いっそ小さく死ねばいい

 

歌詞の一番最後まで聴いていると

くたばる喜びとっておけ

と書いてあるように決して自殺を幇助するような歌ではないですし、歌全体を通して伝わっているのは「辛い」境遇におかれた際の自分自身の心との対話、辛い時にふと立ち止まっていろいろな形で物事を見つめ直す姿、そんなものが歌を通じて歌われているように思えます。

けっして他人の命を無責任に突き放すような歌ではないのは、歌全体を通して聴くと、伝わってきます。

 

この歌は、受け手が体の中に溜め込むように歌の最初から最後まで全てを受け止め、体内で消化し反芻することで、ようやく歌の味や、歌がテーマとしているもの、というものがつかめるようなタイプの歌に思えます。

しかし、曲全体をとおして聴くのはそれなりに受け手にもエネルギーが必要ですし、だからこそ1フレーズの耳心地の良さが求められるポップスの世界の方が受容があるでしょうし、そういう聴き方をする人にとっては冒頭の二小節の強い言葉だけが頭に残り、表面的な事象に脊髄反射してしまい炎上、ということになってしまったのでしょう。

 

 

こういう炎上騒ぎを見て感じるのは以下。

  • 受け手の情報の許容量が極端に少なくなっている。もしくはもともと少ない。長く大きな作品全体を受け止めて理解することをせずに、枝葉末節の皮層に脊髄反射してしまう
  • あくまで作り物の「お話」「歌」なのに、過剰に深刻にとらえて反応をしてしまう。
  • 作者へのリスペクトが無い。

 

たとえば落語。

一言聴いてわかるような細かいギャグも織り交ぜつつ、一捻り二捻り頭をひねらせないと意味が分からないわかりづらい(そしてとても良くできた)笑い話や、小話の全体のストーリーを一から十まで聴いてはじめて合点するような笑い、という世界があります。

 

たとえば、ミステリー小説。

伊坂幸太郎の作品などは、『ラッシュライフ』がその典型ですが、200ページくらいある作品の中で積み上げてきたお話を、最後の数ページであっというどんでん返しでひっくり返す。という世界があります。この驚きは、作品全体を一からくまなく読んできた読者に対する最高のプレゼントです。

 

落語の世界であれば、たとえば熊さんがどんなに話の中で馬鹿にされたとしても、「そういうフォーマットのお話」ということで話が済みますし、それを「いじめだ!」と作者を批判する人もいないでしょう。

ミステリー小説でも、登場人物の細かいセリフや舞台設定を取り上げて、作者の人間性を攻撃するようなこともないでしょう。

 

歌の世界だけ、歌のごく一部を切り取って恣意的に理解し、過剰に攻撃や批判をする、ということが発生するのは、なぜなのでしょうか。

一部を切り取りやすいフォーマットであること、他の創作にくらべて作者自身の人間性や考えが反映されている(と誤解しやすい)こと、などがあげられるかもしれません。

 

または、もともと、そこまで歌詞にたいして強い作家性を持たずフレーズごとに耳障りのよい言葉を並べるだけで作品を作り上げる人が少なからずいるため、聴き手も全体を俯瞰して聴くというよりは細切れの断片断片の心地よさを求めがち、なのかもしれません。

 

ひと時代前だと、たとえばミスチルみたいに個々のフレーズとしては心地よいことや良いこと言ってる風だけど全体を通すと支離滅裂な歌詞を歌うミュージシャン、というのもいましたが、今はさらにその「断片化」が進んでいるように思えます。

 

個人的に、2016 年に聴いて衝撃だった曲が、西野カナの「have a nice day」

www.youtube.com

I say 

がんばれ私!

がんばれ今日も

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

Huppy 

Lucky

Sunny Day

行け!行け!私

その調子

いい感じ

こんな感じで、ポジティブな感じの単語がひたすらならぶ歌詞の作りになっています。一応日本語で書かれていますが、日本語の文章としてはあまり成立していない、短い断片的な単語を無理やりつなぎ合わせたような作りになっています。

これだとどこをどのように切り取られてもなんとなくポジティブな感じがするし、聴き手も集中して聴いたり歌詞について考える、というよりは「ながら」で気軽につまみ食いができる曲になっている気がします。

 

西野カナはとても歌唱力があって歌声は心地よいですし、歌詞に意味を持たせないで雰囲気を表現するだけの飾りとして使う人もいるので(代表的なのは、さだまさし北の国から」)、私はこういう歌の存在を否定する立場ではないです。

 

しかし、さすがに「have a nice day」は歌詞をじっくり聴いくにはスカスカな歌過ぎる気がして、一曲通して組み上げられる濃厚な世界観みたいなものが好きな人にはなかなか受け入れられないような気がします。

だからこそ森山直太朗のような歌い手も必要なわけです。

しかし、森山直太朗の歌を、西野カナの曲を聴くようなスタイルで一部分を切り取って消化し、安易に否定、というのは、自分の価値観でものごとを切り取ろうとしている視野の狭さを感じてしまいます。

 

西野カナのようなポップで軽い歌い手がいてもいいし、森山直太朗のような重厚でねっとりとした歌い手がいても良い気がします。そのスタイルを聴き手も尊重し、理解し、リスペクトをして、歌い手の世界をできるだけ「ただしく」聴いてあげるのが良いのではないかと思います。

 

とつぜん 10 年前の曲を引っ張り出したのは、ちょうどいま森山直太朗のコンサートツアーが行われていて、その報を聞いてふと思い出した感じです。炎上や活動休止等いろいろありましたが、森山直太朗は「絶対、大丈夫」な感じのようです。

naotaro.com

なぜ、コメダ珈琲店はいつも行列なのか?

 

名古屋出張の際に初めて訪れてから、私もコメダ珈琲の魅力に取り憑かれた一人です。

パンのクオリティと、採算を無視しているとしか思えないゆったりしたソファの設計、無限に続くと思われるおばちゃんのおしゃべりを放置するお店の寛容さ、などなど。

そんなコメダ珈琲の魅力について、まとめられた本です。

ひたすら「コメダ推し」の紙面なので、機関広報誌的な位置づけで捉えると良いと思います。

 

店舗数ではスタバ、ドトールに続く第三位ということで、スタバなどとよく比較されるようですが、僕もこの本を読んで気づきましたがスタバ・ドトールコメダは圧倒的に似て非なるところがあります。それはセルフサービスか、フルサービスか、ということ。

セルフサービスのお店はカウンターで先に注文してテイクアウトするか自席を確保する導線になってます。フルサービスは、まず席につき、店員が注文を席まで取りに来て、商品も席まで運ぶ。テイクアウトも行っているが基本的には店内サービスを前提としている。

なので、コメダ珈琲は、フルサービスのコーヒーショップとしては日本最大の店舗数を誇る、という表現ができます。競合はルノアールや星乃珈琲店や、いわゆる街の喫茶店になり、そう考えるとここまで店舗を拡大して急成長できてしまうコメダの異質さが際立ちます。

 

コメダの平均滞在時間は1時間と言われており、先のセルフサービス系のドトールにくらべると倍くらい長いらしいです。その回転率で採算が取れるのかと思いますが、長時間営業(7:00~23:00)を行い、その全時間帯にまんべんなくお客を集めることで不利を補っているようです。また、朝のモーニングで提供されるトーストと同じパンを通常メニューのサンドイッチなどでも使うなど、食材の回転率を上げるなどの工夫をしているようです。

以下は特に本では触れられてないですが、コメダは都心や駅チカにお店があるというより、少し離れた、車で訪れる事を前提とした郊外に立地することが多いですが、早朝〜昼間〜夜間人口が安定して一定数以上多い土地をある程度選んで出店しているのでしょう。

 

当書を読んだり、実際にコメダに入り浸ったりした自分の感覚としては、当書に書いていることは非常に頷けることが多いです。

そして、僕の個人の意見では、コメダは見た目の流行にとらわれずに「実質」を追い求めているお店だな、と思います。

パンの美味しさや、やぼったい器にびっくりするほどたっぷり注がれて出てくるコーヒー、豪華で座りやすいソファ席、そして長居を許容する店作り。

おしゃれさはないかもしれませんが、いずれも、「顧客が本当に望んでいたもの」である気がします。

 

SNS などで喧しく自分をアピールする人たちはぜひスタバやブルーボトルなどに訪れていただき、コメダのことはそっとしていただき、より本質を求める人達の憩いの場としてコメダ珈琲は末永く快適な場所を提供してほしいな、と思っています。

とはいえその魅力に気づく人も世の中には大変多いようで、業績はうなぎ登りのようですし、株価も上場以来たいへん好調なようです。

 

これでいいのか川崎市

コンビニなどで、誰が買うのかよくわからない安価なムック本を見かけることがよくありますが、そのなかで「地域あるある」的な情報をまとめた本はひとつのジャンルになっている気がします。

そのなかで、絶対普段なら読むこともないですが、暇にあかせて買ってみました。

地域批評シリーズ5 これでいいのか神奈川県川崎市

地域批評シリーズ5 これでいいのか神奈川県川崎市

 

川崎市出身者の悲哀というものは沢山ありますが、県外の人と話をするときに「川崎出身です」という話をすると、95%くらいのの人には「川崎駅」やその周辺の港湾地域のイメージを前提に語られてしまいます。

しかし川崎は多摩川に寄り添うように南北(もしくは東西)に細長く広がる地勢を持ち、南北(東西)の交通網が貧弱なこともあって川崎北部(西部)と、川崎駅が存在する川崎南部(東部)の交流がびっくりするほど存在しません。

北部側にある宮前区に生まれた僕は、川崎駅に出るよりも、港北ニュータウンや渋谷に出る事の方が圧倒的に多く、今でも川崎駅の周りに何があるのかよく知りません。

 

川崎市は7区ありますがそれぞれが特異な存在感を持っており、そんなモザイク模様で統一性の無い、ある意味隣接する地域や環境によってカメレオンのように姿を変える、そんな、川崎市民、出身者であれば共感できる、他県には理解できない川崎市の姿について、まとめられている本です。

 

個人的には、川崎市民プラザが取り上げられているのがなかなか郷愁を呼び戻すには十分なネタでした。

www.kawasaki-shiminplaza.jp

ゴミ焼却場に併設された、焼却熱を再利用して温水プールなどを整備した施設で、地元の憩いの場所であると同時に他県人には絶対にどうでも良い施設で、こういう地元以外の人に関心がなさそうな施設を取り上げるあたり、当書の編集の人たちは「よくわかっている」と感じさせます。

また、僕も子供のころによく通った鷺沼プール(今はフットサル場になった)の「六角プール」も、地元民にしか通じない情報としてなかなか味わい深いです。

 

宮前平を中心としたエリアが「高級住宅街」と表現されているのは、だいぶこそばゆい感じをさせます。

しかし、昔は当たり前の光景として眺めていました風景が東京に移り住んでみてその見え方が変わることもあります。計画的に開発された庭付き+駐車場付きの邸宅があたりまえの宮前平周辺の区画は、東京23区にそこかしこに点在する戦後ドサクサとしか思えないようなバラックの建物や信じられないくらい狭窄な道や区割りなどがある現場にくらべると、とてもハイソで高級感がある、のも確かなように思えます。

また、教育熱が高いのも、地域の特性として確かでしょうね。

 

川崎市もなんだかんだいって140万人を越す大都市で、市全体を一冊のムック本で表現するのは限界があり広く浅く感は拭えないですが、暇な時に、もしくは地元の人と一緒に拾い読みしたりするには、こういう本はなかなか良い気がしています。

なるほど、コンビニとかに置くには、たしかに適切な本かもしれないですね。

 

 

歇后语

cjjc.weblio.jp

日本語に適切な訳が見つからないですが、「しゃれ言葉」「かけ言葉」といった風に訳されることが多いようです。

 

何かを暗喩するような言葉を謎かけ的に使う言葉で、おもに昔の故事などから引用されることが多いようです。

 

よく代表例として挙げられるのが以下

孔夫子搬家

「孔夫子」は孔子、「搬家」は引っ越しのことです。

この言葉の意味は「負けてばっかり」...まだ意味が全然わからないですよね。

孔子の家にはたくさんの本が置いてあり、本の事を中国語では「书(shu)」と呼びます。

そして、书 と同じような発音の語に「输」という言葉があり、これは負ける、という意味です。

同じ音にかけて、「たくさんの本がある = たくさん負ける」という連想で、このような意味になるようです。

 

三国志好きの人には「阿斗当官」というのが良いかもしれません。

阿斗はご存知の通り劉備の息子で、凡将の代表格の汚名を着せられている人です。

そんな人が官職に就く、ということで「有名だけど中身が無い」ことを表す語になっているようです。

 

中国近現代文学について興味のある人には「阿Q谈恋爱」も良いかもしれません.

阿Qはもちろん魯迅の描いた「阿Q正伝」の主人公です。

作品の中で阿Qは名家の女中に直情的に劣情をいだき手を出したりするのですが、そういう人間が「谈恋爱=恋愛をする」ということですから、「直截的に物を言う」というようなことを表す語になっています。

 

「歇后语について学ぶと、あなたの幼稚園〜小学生レベルの中国語も、中学生レベルくらいまでは上がるかもよ」と、以前知り合いの中国人に言われたことがありますが、たしかに歇后语にはいろいろな歴史的な逸話や、中国語におけるレトリックなどが存分に織り込まれているので、勉強するには良い教材かな、とも思います。

なんか以下のような、誰得かよくわからない twitter bot も見つけてしまったので、こういうのも見ながら緩やかに勉強していこうかと思います。

twitter.com

女は引き寄せて、つっ放す

太宰治人間失格を読んでいるのですが、なかなか刺激的というか男性の女性に対する心を上手く表現しているなという一節をただ貼り付けておきます。

 

女は引き寄せて、つっ放す
或いはまた、女は、人のいるところでは自分をさげすみ、邪慳にし、誰もいなくなると、ひしと抱きしめる

女は死んだように深く眠る、女は眠るために生きているのではないかしら

その他、女に就いてのさまざまの観察を、すでに自分は、幼年時代から得ていたのですが、同じ人類のようでありながら、男とはまた、全く異った生きもののような感じで、そうしてまた、この不可解で油断のならぬ生きものは、奇妙に自分をかまうのでした。

「惚れられる」なんていう言葉も、また「好かれる」という言葉も、自分の場合にはちっとも、ふさわしくなく、「かまわれる」とでも言ったほうが、まだしも実状の説明に適しているかも知れません。 

 

 

斜陽・人間失格・桜桃・走れメロス 外七篇 (文春文庫)

斜陽・人間失格・桜桃・走れメロス 外七篇 (文春文庫)

 

 

从那以后

以下の衝撃的なドキュメンタリーを見てから、文化大革命について色々調べ始めたのですが、

www.youtube.com

www.nhk.or.jp

最近、2016年、以下のような歌が中国の音楽番組「中国之星」(中国の星。星は日本と同様芸能的な"スター"の意味がある)をきっかけに話題になったのを知りました。

www.youtube.com

6人家族だった家族が、文化大革命により、父は吊るし上げられ粛清され、そのことにより一家離散し、母は再婚し別の地に、兄弟は「下放(知識階級が農村などに放追されること。習近平などもこの経験者であるのは有名)」によりばらばらの地に追いやられ、一家が集まることもなく遠く幸せを祈っている。私が歌うのは、両親の歌。「誠実に、善良に、生活を楽しむ」。これは両親が一番好きな歌だった。

というような歌詞の内容でした。

 

もちろん、政治的な責任問題まで踏み込むことは無いのでしょうが、一人の個人としての、その時代を生きた人の感じた痛みを歌い上げ、そのことが多くの人の共感を得たのでしょう。

皆が筆舌しがたい辛さ、人間の愚かさと恐ろしさを感じた出来事について、できるだけ淡々と、叙情的に語る歌、という意味だと、ある意味さだまさしの「広島の空」と親しい世界観の歌なのかな、ということが言えるかもしれません。。

www.youtube.com

 

ある意味ガス抜き、ということなのかもしれないですが、中国の社会でも文化大革命について語られるようになった事は、犠牲になった人へのわずかばかりの弔いになるのではないかと思います。

 

文化大革命だけでなく、天安門事件や、チベットや新居ウイグル地区その他少数民族への大規模なジェノサイド、人権蹂躙などについても、ひろく多くの人の門前で中国人同士が語れるようになる、そんな時代が来るとよいな、と陰ながら祈っています。