風の軌跡
さだまさしさんコンサート。『風の軌跡』 懐かしい唄もいっぱい🎵 晩鐘、セロ弾きのゴーシュ…久々に聴き、また感動しました。 大好きな、主人公、風に立つライオン。泣😭 北の国からを、みんなで大合唱🎶 何と言っても、軽快なさだトーク💛 pic.twitter.com/TgMDhRXoJa
— まっきぃ (@mackey_3868) 2015, 6月 20
いよいよ始まった新しいコンサートツアー「風の軌跡」
同題のアルバムが7月にリリースをされるのにあわせてのツアータイトルと思われますが、ツアーの楽曲の構成はまたアルバムのテイストと重なる部分もあり、微妙に違い、特色を含んでいる気もしています。
「風」というものに、さだまさしは何を感じ、どんな思いを託しているのか。今回のツアーで選ばれた楽曲から類推するに、それは「人生」そのものであり、その人を取り巻く環境、心象、そういったものを「風」という言葉に託しているのだという事は想像できます。
「ほおずき」や「春への幻想」といったグレープ時代の楽曲、そしてまず最近のコンサートでは聴くこともなくビックリした選曲「虹の木」では、青春時代の恋の軌跡、葛藤、そんな甘酸っぱさや胸の詰まる苦しさ感じさせるような情景を「風」と言う言葉で表し
だから僕は風の中で
あなたと過ごした 春の日の夢が
ふたたび巡る 時を待ちつづけて (「春への幻想」)
折りから風に吹かれて散る 虹の木の花びらが
まるで遠くで雨の降る如く キラキラと光ってた (「虹の木」)
「晩鐘」や「October」では、より大人びた、深く息を吐きだすような恋愛の終焉に対する思いを歌にしています。
風花がひとひらふたひら君の髪に舞い降りて
そして紅い唇沿いに秋の終わりを白く縁取る (「晩鐘」)
恋の終わりに、日々を振り返り、今の心境や流れる風景を眺め、それぞれが「風」として表現されているように見えます。
人生は風のように、常に吹き続け、流れ続けているもの、そして一度吹いた風は二度とは戻らないもの。「無縁坂」では母の姿に年月の流れを感じ、「主人公」や「セロ弾きのゴーシュ」「邪馬臺」では亡くなった人、そしてその思い出を歌にします。
めぐる暦は季節の中で
漂い乍ら過ぎてゆく(「無縁坂」)
有明の海に風が吹く
あの人を追いかけて夢が吹く(「邪馬臺」)
思い出というのは、記憶の中、自分の心の中にだけ吹くそよ風。手につかもうとしても穏やかに通り過ぎて行く、そして時が経てば経つほど穏やかに長く吹く、、、そんな情景にも感じられます。
具体的に「風」という言葉を歌詞に重ねていない楽曲もそれなりにありますが、この段になると聴き手も徐々に気づいてきます。ああ、風とはつまり、人生そのものだ、と。そして人生とは、風のようなものだ、と。
最後の二曲は非常にライブで人気のある楽曲ですが、「風」という文脈で捉えると「風に立つライオン」は強風の中雄々しく起立するライオンのように、強い意志を持った人間の姿を、「療養所」は風の吹き止む風景を想像させる曲、と言えます。
「風の軌跡」と題するタイトルの通り、2時間半前後のコンサートの中「風」という事を感じさせ、その情景に浸り、また人生について考えさせるコンサートでした。
もちろんこれは僕の捉え方で、人それぞれ重ねてきた人生の年月によって感じ方も違うでしょうし、そもそもさだまさしが伝えたい内容が何なのかも推測しかできません。
しかし一番感じるのは、還暦を過ぎてなお衰えないさだまさしの野心もしくはチャレンジ精神。60歳も過ぎると、ただひたすら過去の名曲を歌えば年金のようにお金が入ってくるというスタンスで歌っているように見える人も多い中、知名度の高い楽曲にとらわれずに、新曲や、びっくりするようなマイナーな曲もないまぜにして、コンサートを一つの「作品」としてつくり上げ、これほどテーマ性の高いコンサートに仕上げて来た事。この点については、ただ敬服をせざるを得ません。
そして、数ヶ月続くツアーの中、季節が変わり、人の心が変わり、この「風の軌跡」というツアーで表現されるもの、受け手に伝わるものも、風のように緩やかに変わっていくのかもしれません。
この春は 花ををしまで よそならぬ 心を風の 宮にまかせて(西行)