母親に聞かせたかったさだまさしの歌
僕はさだまさしが小学生の頃から好きですが、母親と一緒にコンサートに行ったことはありませんでした。ある意味親不孝なのかもしれませんし、実際のところ自分の趣味を押し付けないというのは親孝行の姿なのかもしれません。
僕の母親は、豊かでない時代に青春時代を過ごし、中学を卒業後すぐに上京をして働き、家庭を持ってからもあまり仕事にも家事にも熱心でない夫の肩代わりのように家族の中心で支え続け、離婚を経験しつつも父が脳卒中で倒れたあとは献身的に支え続けている人です。なぜそこまで強く生きることができるのか、僕のような生半可な人間では到底及びつかない偉大な人です。
そんな母親に、ただ単純に感謝の言葉を伝える以上に、母親の心に寄り添うような事ができないか、といつも考えていました。
2年前の2015年に、「風の軌跡ツアー」という、同名のアルバムの名前を冠したツアーが行われました。
このツアーのセットリストは非常によくできており、かつ今の母親にぜひ聞かせたいと思わせる曲が多かったため、僕の人生でいまのところ唯一、母親を連れてさだまさしコンサートに行きました。
さだまさしの歌う世界を通じて、僕の伝えたい気持ちを抽象的に代弁して伝えることができるのではないかと思って。
セロ弾きのゴーシュという歌は、宮沢賢治の有名な小説から名前を借りた曲で、夫をなくした未亡人の追憶の日々を歌った歌です。
今の母も、物言わぬ人となってしまった父の介護をしながら何を思っているのか、過去の辛いこと、それを乗り越える力の源泉となった父への尽きることない愛情、楽しかった思い出、そんなものが胸に去来しながら日々を過ごしているのかもしれません。
そして変わり果てた姿を日常として捉えつつ、過去の眩しい思い出にふと心が揺らぐこともあるのかもしれません。
市場へ行こうと思うの ねェ思い出も売ってるといいのに
療養所と書いて「サナトリウム」と読ませます。
入院をしている青年が、同室となった病床に置かれた老婆の姿を思い歌った歌です。
どのような綺麗事を並べても、人は老い、いずれ死ぬという事実は覆りません。ある意味絶望かもしれないし、諦めるしか無いことかもしれません。その現実に直面した時に、人はどのように受け入れ、接することができるか、そのような事を 考えさせる歌です。
まぎれもなく人生 そのものが病室で
僕より先にきっと彼女は出ていく
幸せ 不幸せ それは別にしても
真実は冷ややかに過ぎてゆく
ただしこの歌には、最後に一筋の救いがあります。
その人の生きがいというものは、自分自身が感じるものでありますが、周りの人の温かい心や、関心、ちょっとした優しさというものが形作っていくものではないか、とこの歌を聞いて感じたりします。
とはいえ、やはり、母に届けたい曲は、この曲だったように思えます。
母の人生も、長い坂を、一人向かい風に逆らって歩いて行くような人生だったように思えます。
その中で、日々明るさを失わず、強く生きてきた母。
子どもには弱さを見せないそんな母の、心の奥底にある気持ちとはなんだったのか。それは僕にわかるはずもなく、ただその心のあり方を推し量るのみです。
運がいいとか 悪いとか
人は時々口にするけど
そうゆうことって確かにあると
あなたをみててそう思う
なお、こう書いてみると僕が母親をコンサートに連れて行ったことはいい話っぽく見えてしまいますが、母はコンサートに行った日こそ盛り上がって「YouTube でさださんの曲聴きまくるわー」と興奮してましたが、一ヶ月後実家に帰ったら「ゴールデンボンバー」の曲に夢中で、さだまさしの「さ」の字すら完全に忘れていた様子でした。