アイ

介護の敵

介護の現状というのは、なかなか未経験な人、もしくは想像力のない人には理解をしていただくのは難しいものだといつも感じます。

個人的に一番の敵なのは、介護に対して正面切って嫌悪感を示したりするような人ではありません。そういう本能的な反応の中にこそ問題の本質があることも多く、それこそが解決しなければいけない問題だと認識できるからです。

どちらかというと本当の敵は、中途半端な正義感、もしくは自分をただ飾りたいがために通俗的な価値観に乗っかって「ちょっと良いこと」を言おうとする浅はかな人たち、だと思います。

 

今年、高知東生が薬物関連で逮捕されました。

1年前ほど前に介護をするために芸能界を引退、となっていましたが、どこかで見かけたインタビュー記事では、ヘルパー頼りの介護の実態を語っており、客観的に見てそのことが引退する理由に足るとは到底思えませんでした。

そして実情は以下のような感じだったようです。

jisin.jp

高知東生の逮捕を受けて、いろいろな意見がありましたが、僕個人が一番目を疑った反応は「介護疲れから、薬に走ってしまう気持ちも理解できる」という反応。

 

高知東生自身がまともに介護をしてなかった、という点を置くとしても

世間で、肉親などの介護をしている人たちの大半は、現実を直視しながらも、自暴自棄にならず、薬などにももちろん頼らずに、生きています。

犯罪を犯さず慎ましく生きている事を「偉い」と表現することは難しい事で、ごく当たり前過ぎる事だとは思います。

 

じゃあ芸能人や有名な人であれば辛いことに直面したときに容易に道を踏み外してよいのか。

介護疲れによると思われる凄惨な事件が報道されているのは現実ですが、介護従事者は薬に手を出したり殺めたりしても「しようがない」ような危険な人たちなのか。

 

実情として、ギリギリまで精神を張り詰めて現実に立ち向かう人たちも多いです。介護をしているわけでもなく快楽におぼれている人に対して、単に有名人だからとかそういう意味で、快楽犯罪に溺れることを「理解できる」と同情を寄せる姿を見て、多くの名も無き人々、日々を真面目に生きている人たちはどう思うのですかね。

 

上記のような反応をする人は、自分は一切その領域について考えたことはなく、どちらかというと見下しているけれど、でも「こういう「ちょっと良い」発言をしておけば思慮深く見られたり、優しく見られたり、自分の点数が上げられるかも」という浅はかな打算だけを動機に発言するような人たちです。そして、人間に対する洞察の優しさや、想像力がない人たちです。

 

 

文化大革命によるモンゴル人大虐殺

 

狂暴国家中国の正体 (扶桑社新書)

狂暴国家中国の正体 (扶桑社新書)

 

週刊東洋経済で現代史についての特集が行われていて、その中の2ページ特集で楊海英さんの記事がありました。

語られているのは、掲題の内容。

もう少し内容を詳しくしりたいと思って、楊さんの著作のうち kindle で配信されていて手軽に手に入る上記の書籍を買ってみました。

文化大革命が起こった当時、内モンゴル自治区には150万人のモンゴル人が居て、その中で少なくとも34.6万人が拘束され、うち2.7万人が虐殺された、と。この数字は中国共産党が発表した少なめの数値で、実際は10万人を超えるモンゴル人が虐殺された、とのこと。

 

楊さんは中国語名を名乗ってはいますが内モンゴル自治区出身のモンゴル人で、文化大革命に際してのモンゴル人の虐殺についての研究については専門家のようです。

ただ上記書籍については、あまりにも手広い範囲の話題を扱い、当人の中国人憎しの感情が先走りすぎているきらいがあり、感情的でまとまりの無い書籍の印象です。

ただ、第一章だけは、上述の文革期のモンゴル人虐殺についてまとめられており、簡潔に事実を理解するには良い書籍だと思いました。

 

中国という国は地理的にも人口分布的にも広大で、かつ「共産党員」と「その他」という明確な格差社会であり、ひとことで「中国人」と表現することは全く適切ではないとは思っています。ただここでは書籍にも倣って「中国人」と呼称しますが、

中国人によるジェノサイドは文革期における自国民ならびにモンゴル人も含む少数民族にだけ行われたことではなく、現在進行系でもチベットや、寧夏回族自治区、新疆ウイグル地区でも非常に顕著に非人道的な行為が行われています。

なぜ、そのような行動を行うのか、思想的な背景として、上記の書籍では「文明的な中国人」と「野蛮な周辺住民」という構図があり、彼ら野蛮な人たちを「教育」「糺す」ために、西洋諸国的な人権を度外視した政策が行われ、特にはジェノサイドのようなことが行われる、と解説されています。

その背景には、いわゆる「中華思想」と、マルクス思想の「発展階段論」(原始社会から、最終的には共産主義者会に「階段状に発展していく」という論。らしい)が背景にある、とされています。遅れている周辺地区の人々を、中国が「教育」し、ときには過ちを「糺し」、そして正しい方向に「発展」させていく、と。そして、その対象は、当然のことながら「日本」も含まれている、と。

 

以上、書籍に書いてあることの引用に近い形で述べましたが、正直すべてに同意するのは難しい気がしています。

とはいえ、中国という広大な国の中で、何が行われてきて、いま何が起こっているのか、なかなか外からはうかがい知ることは難しいのも事実で、だからこそ無関心でいられる部分もあり、だからこそ妄想や憶測をベースにした陰謀論的なものも跋扈するのでしょう。

 

当書で示唆に富むな、と思った箇所は、中国に支配されている少数民族の中でも、高度に教育を受け諸外国にスポークスマン的な立ち位置で活動できる民族は、そうでない民族よりもより「正しい情報」を諸外国に伝えることができる、ということでした。

チベットなどはその代表で、相当な苦難におかれてはいますが、日本人含め諸外国のひとたちはその状況を認識することができる。

しかし、内モンゴル地区では、まず知的階層が虐殺の憂き目にあい、そういうふうに情報を発信したり、もしくは中国への反乱を企てるエリート層となることができる人材が極端に不足している、とのこと。

そういう意味で、スポークスマンとして、楊さんのような存在は非常に貴重で、かつ中国にとっては大変疎ましい存在なのだろうな、とは思います。

 

 

墓標なき草原(上) 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録

墓標なき草原(上) 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録

 

 

墓標なき草原(下) 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録

墓標なき草原(下) 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録

 

 

会社の老化は止められない

 

 数ヶ月前に読んだ本ですが、ふと内容を思い出したりしました。

この本は、アカデミックな知見というより、網羅的でない多少偏った視点・ヒューリスティックな視点で会社としてのあるある話をまとめているような本だと思います。

とはいえ、個々のエピソードには、首肯できるような一節もそれなりに存在しているように見えます。

 

個人的に一番納得感が強い表現は「不可逆プロセス」。

変化は、はじめ何もない状態であれば選択肢も多く、かつ一方向への変化は起こしやすい。しかし変化を起こしたあと、ケースによっては簡単にはもとに戻ることのできない、「覆水盆に返らず」的な変化が起こることがあり、それを当書では「不可逆プロセス」と表現しています。

たとえば、新幹線「のぞみ」は昔は東京から出たら基本名古屋までノンストップ、もしくは稀に名古屋すら止まらない速達性重視の路線だったが、現在では品川や新横浜に止まるようになり、いちど止める決断をするとそれを元に戻すことは難しい、という例が挙げられていました。

 

当書では、組織というある意味擬人化・抽象化された存在に対してのみならず、そこに属する個々人についても「不可逆」であるとしています。同じ会社に居続けたとしても、人間の心理は、常に同じであり続けることは無い、ということです。

人間の心理の不可逆性、非対称性について、当書では以下のようなものを挙げていました。

  • それまでの習慣に固執する
  • 一度得たものは手放せない
  • 期待値ではなく、リスクの大きさに反応する
  • 低きに流れる
  • 手段が目的化する
  • 縄張り意識を持つ
  • 知れば知るほど近視眼的になる
  • 自分中心に考える

上記の項目について詳細な解説も本の中では付記されています。

 

個人的な経験も踏まえて、上記のようなお題目を出されると、色々と思い至るところがあったりします。

 

僕も、何もないところから、その時自分で考えうる最良のベストプラクティスをひねり出して新しい習慣なりルール、方針を作り出すことがそれなりに経験としてありました。

それは万全である、パーフェクトであるとは思っておらず、定期的に棚卸しをしてよりよいものに作り変えていくべきものです。

しかし、作り出した当人のそういう意識とは裏腹に、他の人達のほうがなぜか、そういう習慣を守りたがるインセンティブが働くことが、多いように見えます。

 

また、本質的な価値を生み出すための行動をしなければいけないときに、社長など本当の意味で会社の判断をする人やモチベーションの高い現場の人ほど、自分で責任を負いリスクを背負ってそういう行動を取ることがあります。これを妨げる妨害者は、ほとんどの多くのケースで、数字的な責任を負わされている中間管理職です。

こういう人が出てくると、数値で表すことが容易な、過去の習慣に引きづられた、今では価値を失いつつある価値観に引きづられ、目の前のリスク回避のために本当に起こさなければいけない本質的な変化の芽を摘み取ってしまいます。

 

などなど、様々に、当書が挙げている問題提起に対して、自分の経験に即していろいろと実例も交えて反芻することが多い、そんな本ではあると思いました。

多くの同種の経済書が、組織を擬人的にもしくは抽象的に捉え、マクロな視点で俯瞰するものが多い中、中にいる個人個人にフォーカスを当てるところが、泥臭さも感じますが、実に迫る部分もあるのかな、と思います。 

 

この本には、「勘違い社員」という表現もありました。

草創期の人たちの努力により何もないところからものが作り上げられ、結果としてブランド価値が確立したあと、その後に入社するのは「ブランド価値」に惹かれた社員が多くなります。その人達は、自分たちが作り上げたわけではない価値に依拠して自分を飾り、自尊心を満足させる。そんな人達のことが会社の老化を促進させる存在である、ということも書いてありました。

 

概ね、目に見える成果、というものは、先人が畑を耕し、せっせと芽を植えて、長い時間がかかった結果ようやく芽吹いたものです。

その、今現在目に見える成果は、何年も前からの積み重ねによりようやく萌芽したもので、その価値を作り出したのは数年前の人たちの努力です。

しかし、よく組織の中で目にすることは、今目の前にある成果を、今そこに居る人たちの成果と勘違いすること。ある意味掠め取るように自分たちの手柄にすること。

そして、今、そこにいる人達が、畑を耕すことを忘れて、ある意味焼き畑農業的に先人の資産を浪費することに終始し、将来的な価値を生み出す施策を忘れることもよく見かけます。

そういう人のことを、当書では「寄生虫的」というような表現をしていましたが、いわゆるフリーライダーという人たちは、こういうような人たちなのだろうな、と思ったりします。

人生

最近時間がとれるようになったので、万葉集を一巻目から読み直しているのですが、個人的に心に残るのはやはり挽歌。

とくに多くの挽歌を残し、人の生命に対して深い洞察を感じさせる歌を多く残した山上憶良の歌に、今この歳になると強い印象を残すものが多いです。

巻5、804首目の以下の歌は長歌で、高校時代とかは長たらしい表現だと毛嫌いしてあまりこういうのを進んで読まなかったのですが、今あらためて読むと普遍的な内容がリズミカルに歌い上げられていて、その完成度に感嘆します。

しかし、内容については、世の中の無常を客観的に捉えた、ある種諦観を感じさせるものになっています。

世間の すべなきものは 年月は 流るるごとし
取り続き 追ひ来るものは 百種に 迫め寄り来たる

娘子らが 娘子さびすと
唐玉を 手本に巻かし 白妙の 袖振り交はし
紅の 赤裳裾引き よち子らと 手携はりて 遊びけむ 
時の盛りを 留みかね 過ぐしやりつれ 
蜷の腸 か黒き髪に いつの間か 霜の降りけむ 
丹の秀なす 面の上に いづくゆか 皺か来たりし 


ますらをの 男さびすと
剣太刀 腰に取り佩き さつ弓を 手握り持ちて
赤駒に 倭文鞍うち置き 這ひ乗りて
遊び歩きし 世間や 常にありける 
娘子らが 閉鳴す板戸を 押し開き い辿り寄りて 
真玉手の 玉手さし交へ さ寝し夜の いくだもあらねば 
手束杖 腰に束ねて
か行けば 人に厭はえ かく行けば 人に憎まえ
老よし男は かくのみならし 玉きはる


命惜しけど 為むすべもなし

瑞々しかった若い女性も、いずれ髪に白髪が顔にはシワが目立つようになり、

雄々しかった男も、いずれ杖に頼るようになり路行く人々に疎ましがられる。

年月はただ流れていくが、どうしようもない、命は惜しいが、どうしようもない。

 

という歌です。

 

千数百年の間、この歌に描かれたような人生を、誰もが歩んできていて、

昔も今と同じであったのだという不思議な親近感とともに、

 

悠久の歴史の中、常に同じ営みを繰り返しながら、

子孫を継承している人間の存在とは何なのか、

この繰り返される営みとは何なのか、

無限に続くかのような連鎖の中、自分という存在はただ風に吹かれる緑葉のようになんとも頼りない儚いものなのか

そんなことに思いを巡らせ、呆然としてしまいます。

 

 

万葉集(一) (岩波文庫)

万葉集(一) (岩波文庫)

 

 

 

この世界の片隅に

 

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

 

だいぶ前に映画を見ました。

原作のマンガを読んで強い印象を受けた人間のひとりとして、この作品が映画化され、とくに原作の雰囲気を忠実に再現した作品として仕上がったのはとても良かったと思います。

 

ということを前提として、映画版を鑑賞した正直な感想は、以下。

  • 良い映画なのは間違いない
  • ただし、「良い映画だった」と言わないといけない暗黙的な雰囲気を感じさせる映画ではあった。それが若干自由な感想や反応を言うことをはばかられる状態になっている気もする。
  • 呉、広島の当時の風景の記録・再現映画としては素晴らしい
  • 個人的には、女性の立場の視点で戦争を描いた作品として、「あとかたの街」も映画化・映像化してほしいな、と思います。こちらの作品であれば、私もクラウドファウンディングで貢献したいと思います。

 

あとかたの街(1) (BE・LOVEコミックス)

あとかたの街(1) (BE・LOVEコミックス)

 

 

ものすごく正直に個人的な感想を述べると、原作ではきちんと説明されていた事項が雰囲気・流れを優先してはしょったために筋がわかりづらくなっている箇所がいくつかあったことと(原作を先に読んでいれば気にならないが)、主演の声優の演技が若干鼻につくので、僕はマンガの方が好きです。

もちろんこの辺は、個人差があるでしょう。

 

ちなみに、原作には「隣組」のネタがあって、個人的には「八時だよ全員集合」の元ネタを知れてなるほどーと思ったりもしたのですが、映画版ではこのネタがあったかどうかは、かなり集中して見ていたのに見逃しました(なかったのでしょうか)

www.youtube.com

作詞の岡本一平は、岡本太郎のお父さんですね。

万葉集を読む

万葉集というと、中学や高校の国語・古典の授業で勉強した、堅苦しい感じの詩集というイメージがあります。

堅苦しい、というのは、授業のやり方が無味乾燥で、万葉集自身の歴史的な重みとか、枕詞とか古語の活用とかを暗記式に勉強させるあまり、詩の魅力について語ってくれる先生が少ないから、そう誤解している部分も有る気がします。

 

義務教育の授業でも習っている気がするのですべての日本人が知っていることとして、万葉集には「相聞歌」というジャンルがあり、堅苦しさとは真逆な、恋愛をテーマとした軽快な歌も数多く掲載されています。

今の視点でそれらを見返してみると、思わず吹き出してしまうようなゲスい、もしくは単にイチャコラしているだけの歌があったりして微笑ましいです。

 

その中で、大伴田主と石川女郎のやりとりについては、やはり皆印象に残るのか、ググってみても多くのサイトがヒットしました。

やりとりを見てみると

先手:石川女郎
風流士と 我は聞けるを

 やど貸さず 我を帰せり

  おその風流士

口語訳は、以下のようにすばらしいサイトがまとめているのでリンクを貼りますが、

風流士(みやびを:教養ある風雅の士)として名高い田主に対して、石川女郎が猛烈にアプローチ?したのに、家にも泊めてくれない、なんて無粋なんでしょ、と拗ねているように見えます。

それに対する返答

後手:大伴田主

風流士に 我はありけり

 やど貸さず 帰し我れぞ

  風流士にはある

「そう、私は粋な男だよ、だって、あなたを泊めなかったから」

据え膳食わない、誠実(?)な男性だ、という風に解釈することもできるし、「あなたみたいな女性を相手にしないのが粋な証拠」というように解釈することもでき、返しとしては流麗とはいえ相手の神経を逆なでしそうな回答です。

そして、再度、石川女郎から痛烈な返歌が返ってくるわけですが、詳しくは以下のサイトの解釈などを読んでみてください

 

今風にいえば LINE のやりとりを覗き見しているかのような、単なる男女間のいざこざ、痴話喧嘩にしか見えないこんな詩の数々が、千数百年の後の世にも語り継がれるとは、、当の本人達は考えてもいなかったことでしょう。

そして、いつの世も、そこに居るのは人間同士、今と言葉遣いは違っても、本質はそこまで違わないんじゃないかな、と思います。

 

相聞歌を見ているといろいろニヤニヤしてしまう歌も多いですが、僕個人的には「挽歌」と呼ばれる、亡くなった人を歌った詩が一番好きですし、心に響きます。

後世の、平安貴族の浮ついたように見える詩作にくらべて、万葉集に掲載されているそれは、無骨で簡潔で、それでも人間の本質をとても表しているようで。

世間(よのなか)は 常かくのみと かつ知れど

 痛き心は 忍びかねつも

大伴家持が、妻が亡くなった時に詠んだとされる詩です。

世の中は、常にこういうものだとは頭ではわかっていたけれど、妻をなくしたこの悲しみは、耐えることはできない...

 

今も昔も、人間の本質というものは変わらない。そこに居るのは人間同士、今と言葉遣いは違っても、本質はそこまで違わないんじゃないかな、と思います。

 

 

万葉集 全訳注原文付(一) (講談社文庫)

万葉集 全訳注原文付(一) (講談社文庫)

 

 

正しいこと

正しさというのは自分の主観的な価値観で、自分なりの正しさを皆がもっているし、他人に共有できるものでも無いし強要できるものでもない気がします。

自分が自分の信じる正しさを成し遂げた時に、それを周りに吹聴するか、アピールするか、というと、僕はそのようなモチベーションになることは少ないと思います。そのことを自分なりに完遂できて、周りの近しい人たちがそのことを喜んでくれるのであれば、それ以上望むものが何かあるのだろうか。

そして、自分の正しさは、他人にとっては正しくない、受け入れられないこともあります。だからそのことをあまりに全面に押し出しすぎるのは、他人との衝突、もしくは一方的な他人への攻撃にもなりかねません。

あまりに一般化して相手に伝えようとすると、その言葉や行動が、本来自分の中にいた「正しさ」から変質してしまうかもしれません。

 

「自分が正しい」と、その正しさの理由を精一杯まわりに伝えようとしている人は、自分の価値観として「正しくない」何かに気づいていたり、その罪悪感に苛まれているから、それでも自分を正当化し自分を守るために「正しさ」を精一杯アピールするのかもしれません。

もちろん、そういう心の澱みたいなものは他人にはなかなか気づけ無いもので、他人から見ると、なんでそんなに頑張って言い訳をするのだろう、と不思議になることもあります。

 

自分が正しいと信じていることをやり遂げた時は、かえって、そのことをあまり周りに知らしめようとせずに、そっと自分の心の中、そして本当に理解しあえる近しい人の中だけで、温めるように大事にしていくこと。そんな事が、大事なのかもしれません。

これらは、別名では「ささやかな幸せ」と呼ぶこともあるかもしれません。