古今和歌集 真名序
最近所用で古今和歌集を眺めていたのですが、「なぜ古今和歌集を編纂したのか」という動機をわかりやすくまとめた檄文的なものとして、仮名序と、真名序があります。
仮名序は紀貫之が「かな文字」体で記したもので、こちらの方が世間的には有名です。
ただ、個人的には、紀淑望により漢文体で書かれた「真名序」の方が、「なぜ歌が必要なのか」を簡潔にまとめられているという意味で、好きな文章です。
それ和歌は、その根を心地に託け、その花を詞林に発くものなり。
人の世にある、無為なること能はず、思慮遷り易く、哀楽あひ変る。感は志に生り、詠は言に形る。
ここをもちて、逸する者はその声楽しく、怨ずる者はその吟悲し。もちて懐を述べつべく、もちて憤を発しつべし。
天地を動かし、鬼神を感ぜしめ、人倫を化し、夫婦を和ぐること、和歌より宜しきはなし。
私なりに現代語訳をすると以下のような感じ
和歌とは、心という大地に根を下ろし、言葉の林の上に開く、美しい花のようなものである。
人生は無為に過ごすことはできない。気持ちは移ろいやすく、悲しかったり楽しかったりする感情も行ったり来たりを繰り返す。感動は心に生まれ、詠となって言葉に表れる。
なので、楽しく暮らしている人はその声は楽しく、怨念を抱いている人の言葉は悲しい。和歌によって自らの思いを述べ、和歌によりその憤る気持ちを伝えるべきである。
天地を動かし、鬼神の存在を感じさせ、人々に教を伝え、夫婦の中を円満にすることにおいては、和歌より相応しいものはない。
あらゆる森羅万象についての媒介者として、人間の心を通じ合わせるものとして、「和歌より宜しきはなし」と述べています。
今、試作を生業にしている人が、ここまでの自負と使命感をもって同じような発言をすることができるでしょうか。すべての表現者があらためて読んでその意を汲むべき先人の思いが、古今和歌集の真名序・仮名序には表現されているように思えます。
仮名序、真名序では他に、和歌の種類は以下の6種類であるとしています。この分類の原典は中国の『詩経』にある「六義」ですが、これを古今和歌集なりの解釈で分類しています。
これらについては現代的な意味というよりも、日本の歴史の中で最古とも言われている詩の論評として、意味があるようです。
- 風 / そへ歌
- 賦 / かぞへ歌
- 比 / なずらへ歌
- 興 / たとへ歌
- 雅 / ただごと歌
- 頌 / いはひ歌
マリヴロンと少女
正しく清くはたらくひとは
ひとつの大きな芸術を
時間のうしろにつくるのです。
今自分が行っている事は、目の前に見えるものを形に残すために行っているように錯覚しがちですが、実際は自分が歩んだ跡を轍として記す作業であると思っています。
その人の今の姿だけではなく、過去に残してきた轍によって、その人の人となりは評価されます。
過去に行った自分の轍に助けられることもありますし、足を引きづられる事もあります。
目の前の利得や他者の毀誉褒貶にとらわれないのであれば、常に、日々を誠実に生きていくことが大事だと思います。
そうでないと、今刻んでいる轍を将来の自分が眺めたときに、心の在処と刻んできた轍のあまりの乖離に、自分自身に対して軽蔑をしてしまうかもしれません。
母親に聞かせたかったさだまさしの歌
僕はさだまさしが小学生の頃から好きですが、母親と一緒にコンサートに行ったことはありませんでした。ある意味親不孝なのかもしれませんし、実際のところ自分の趣味を押し付けないというのは親孝行の姿なのかもしれません。
僕の母親は、豊かでない時代に青春時代を過ごし、中学を卒業後すぐに上京をして働き、家庭を持ってからもあまり仕事にも家事にも熱心でない夫の肩代わりのように家族の中心で支え続け、離婚を経験しつつも父が脳卒中で倒れたあとは献身的に支え続けている人です。なぜそこまで強く生きることができるのか、僕のような生半可な人間では到底及びつかない偉大な人です。
そんな母親に、ただ単純に感謝の言葉を伝える以上に、母親の心に寄り添うような事ができないか、といつも考えていました。
2年前の2015年に、「風の軌跡ツアー」という、同名のアルバムの名前を冠したツアーが行われました。
このツアーのセットリストは非常によくできており、かつ今の母親にぜひ聞かせたいと思わせる曲が多かったため、僕の人生でいまのところ唯一、母親を連れてさだまさしコンサートに行きました。
さだまさしの歌う世界を通じて、僕の伝えたい気持ちを抽象的に代弁して伝えることができるのではないかと思って。
セロ弾きのゴーシュという歌は、宮沢賢治の有名な小説から名前を借りた曲で、夫をなくした未亡人の追憶の日々を歌った歌です。
今の母も、物言わぬ人となってしまった父の介護をしながら何を思っているのか、過去の辛いこと、それを乗り越える力の源泉となった父への尽きることない愛情、楽しかった思い出、そんなものが胸に去来しながら日々を過ごしているのかもしれません。
そして変わり果てた姿を日常として捉えつつ、過去の眩しい思い出にふと心が揺らぐこともあるのかもしれません。
市場へ行こうと思うの ねェ思い出も売ってるといいのに
療養所と書いて「サナトリウム」と読ませます。
入院をしている青年が、同室となった病床に置かれた老婆の姿を思い歌った歌です。
どのような綺麗事を並べても、人は老い、いずれ死ぬという事実は覆りません。ある意味絶望かもしれないし、諦めるしか無いことかもしれません。その現実に直面した時に、人はどのように受け入れ、接することができるか、そのような事を 考えさせる歌です。
まぎれもなく人生 そのものが病室で
僕より先にきっと彼女は出ていく
幸せ 不幸せ それは別にしても
真実は冷ややかに過ぎてゆく
ただしこの歌には、最後に一筋の救いがあります。
その人の生きがいというものは、自分自身が感じるものでありますが、周りの人の温かい心や、関心、ちょっとした優しさというものが形作っていくものではないか、とこの歌を聞いて感じたりします。
とはいえ、やはり、母に届けたい曲は、この曲だったように思えます。
母の人生も、長い坂を、一人向かい風に逆らって歩いて行くような人生だったように思えます。
その中で、日々明るさを失わず、強く生きてきた母。
子どもには弱さを見せないそんな母の、心の奥底にある気持ちとはなんだったのか。それは僕にわかるはずもなく、ただその心のあり方を推し量るのみです。
運がいいとか 悪いとか
人は時々口にするけど
そうゆうことって確かにあると
あなたをみててそう思う
なお、こう書いてみると僕が母親をコンサートに連れて行ったことはいい話っぽく見えてしまいますが、母はコンサートに行った日こそ盛り上がって「YouTube でさださんの曲聴きまくるわー」と興奮してましたが、一ヶ月後実家に帰ったら「ゴールデンボンバー」の曲に夢中で、さだまさしの「さ」の字すら完全に忘れていた様子でした。
ラ・ラ・ランド再考
僕は、映画を見る前も、見た後も、知ったかぶりの知識を身に着けてそれらしい論評をしようと思わないタイプの人間です。世間の評判もほぼ気にしません。
なので、前回書いた記事も、前提知識がほぼゼロの状態で見て、そのままの感想を知識を補わずにそのまま書いたものです。
なので、この意見がどの程度正しくて、どの程度他の人が同じような意見を述べているのかいないのか、全然気にせずに書いているのですが、しかしこの映画については心に引っかかるところがありいろいろ記事を眺めていると、自分と同じような感想を持つ人が意外と多いのだな......と思ったりします。
無意識に自分と同じ意見ばかりを集めている、ということもあるでしょうが。
感想とは「ハリウッドの価値観が凝縮された」「スーパーリッチ層のための映画」で「(白人中心主義を強く感じさせる)多様性の無さを感じる映画」ということです。
白人のゴズリングが「ジャズをいかに救うか」について何度も語るシーンでは、アフリカ系の人々が、彼らがつくり上げた音楽をバックで演奏している。ゴズリングのジャズピアノやストーンのジャズダンスだけに焦点を当てるシーンがいくつもあることは、時に人種差別的であるように感じられる。
ジャズやミュージカルについての映画にもかかわらず、アフリカン・アメリカンや性的マイノリティの人々をないがしろにしていると、さまざまな音楽家たちに批判もされている。いまの時代に観るにはフラストレーションが溜まるのだ。
『ラ・ラ・ランド』は“白人化された”作品だ。作品は楽しく、エマ・ストーンは素晴らしく、勢いのあるミュージカルやセットデザインは見ていて気持ちがいい。しかし、ジャズについての映画にもかかわらず、アフリカン・アメリカンには焦点を当てずに、白人の主人公2人に偉そうにジャズ文化を語らせているのは褒められたものではない。とはいえ、この映画はアカデミー賞では評価されるだろう。なぜならハリウッドは、ハリウッドを描く映画が大好きだからだ。
WIREDの中の人は、この映画についてかなり腹に据えかねているらしく、こんな記事も書かれていました。
記事のタイトルは「擁護」と書いていますが、その記事のタイトルが「why we hate this movie」となっており、いっさい擁護をする気が無い様が伺えます。
つまり、「あえて」マイノリティを後退させ、そのなかでライアン・ゴスリング演じるセブに「ピュアなジャズの死」を語らせることで、かえって「後退化させられたマイノリティ」に注目が行く。そうすることでチャゼルは、ミュージカルの世界を称揚しつつも、その一方で「白人優位」だったミュージカルの世界をも批判するのだ。そして、さらなる拡大解釈が許されるのであれば、そこには、いまなお続く、白人、そして男性優位のハリウッド社会への批判までもが含まれている。
そんな馬鹿な、と苦笑せざるを得ない文章になっています。どう考えても褒め殺し、言いたいことは真逆の反対であると万人に思わせる文章になっています。
個人的には、以前「アメリカンスナイパー」を見たときにも同じような事を感じたのですが、日本人には、少なくとも僕には、「ラ・ラ・ランド」が描く世界の意味と、その影響について、アメリカ人ほど正確に理解することは難しいように思います。
映画作品がもたらした世論の盛り上がりから、この映画の時代的な必然や意味を考える、くらいが僕に出来る関の山かな、と思います。
そして、これだけ話題が紛糾するという事実だけを以ても、この映画が本年を代表する映画であるのは間違いないようです。
本作へのあらゆる批判が的外れに聞こえるのは、まさにそのためだ。自分で見出した自分への共感を人様にあれこれ言われる筋合いはない。まして「ポスト・トゥルース的だ」などという批判に甘んじることもない。そもそも「夢」や「愛」は、「ポスト・トゥルース」なんて言葉が生まれるはるか昔から「ポスト・トゥルース」的な何かだったにちがいない。『ラ・ラ・ランド』は、そう、甘くささやきかけている。
飲みニケーションについて
その国の言葉で書かれたニュースサイトの記事を読み合わせ、簡単に内容をまとめ、議論をする、というような語学レッスンを定期的に行っています。
その場で、今回のテーマは日本の「飲みニケーション」になりました。
議論というよりは、サイトの記事の内容、もしくは先生に指摘された内容が印象的だったので、記録として残しておきます。
- 日本人は仕事の時間の後も、半強制的に職場の飲み会に参加して、家族や友達との時間を大事にしないのはなぜなのか?
- お酒に弱くてすぐ顔が赤くなる人に対して、面白がってお酒を飲ませ続けるのは、いじめ・パワハラではないのか?
- 飲みニケーションと言うけれど、お酒の力を借りて気持ちが大きくなって始めて本音で語り合えるって、子どもじゃないんだし、もっと普段から自己主張したほうがよいのでは?
- そもそもお酒は健康に悪いのに、なんでこんなに皆飲むのが好きなのか。日本人は健康志向ではなかったのか?
上記の指摘に対して、論理的に日本人の立場を弁護して回答できる人は、どの程度いるのでしょうか?
古くから残る因習、悪習が、そのまま指摘されており、これらは日本人の美徳として捉えることも無いのではないかなと思ったりします。
お酒の良し悪しは別として、お酒を前提とした、会社の中でのコミュニケーションというものはどこまで必要なのか、いろいろと考える良いきっかけにはなりました。
特に個人的には、お酒の健康に対する貢献が限りなく期待できないという研究成果もあり、そこまで平日になんども常飲するものでも無いだろう、と思ったりしています。
しかし、人の手をかけたワインやウイスキーのように、本当に芸術としか形容できない芳醇さに出会うと、お酒の文化というものは廃れないでほしいなという思いも同時にあります。
日本☆地域番付
こんなサイトを見つけました。国勢調査の結果をベースに、いろいろな指標や数値をもとに、全国の市区町村をランキングしているサイトです。
イメージ通りの結果もあるし、固定観念が覆るようなデータが出ているケースもあり、見ていて飽きないです。
財政力指数番付
市区町村の収入を支出で割った指数で、数値が多いほうが自治体の財政が豊か。
ダントツの一位になっている愛知県の飛島村はとても有名な「豊かな村」ですね。
飛島村も含め、財政力指数は概ね以下の要因が満たされると高くなるように見えます。
飛島村は1ならびに2、泊村は泊原発があるので 1、山中湖村は自衛隊の演習場があることが要因として大きく1、といった感じのようです。
財政力指数が見た目高く見えても実際は国に大きく依存している自治体が多い中、軽井沢や箱根、浦安といった箇所は「3」の要因で上位に位置しており、本当の意味で街の財政競争力があるのはこういった自治体のように見えます。
裕福な街、神栖市
比較的知名度のある自治体が多い中、茨城の「神栖市」という聞きなれない自治体が上位に位置しています。
ここは、鹿島工業地帯の中心地帯で、日本でも重要な港湾都市として重要な拠点のようです。
茨城県の端に存在し、鉄道路線が市内に一切存在しない(貨物路線のみ)ため僻地に見え、「ここにはどうやって行けば良いのだろう...,?」と東京に住んでいると思ったりしますが、調べてみると1日に100本近い高速バス路線が走っており、高速道路網も整備されているため、東京から1時間半くらいで結ばれるなど首都圏との結びつきが想像以上に強い環境であるということは発見でした。
しかし良い側面だけではなく、犯罪数が茨城県の中でナンバー1であったり、おそらく工場の出稼ぎ工としてブラジル人の比率が高かったりと、街としてアンバランスな側面も見て取れます。犯罪率の高さは、そもそも神栖市に警察署が存在しない(!?)ことも原因としてはありそうです。なお現在誘致を進めているとのこと。
外国人比率
様々な要因によって日本も外国籍の方が増えてきているようです。ということもあり、その地域に居住している外国人の統計についても上記サイトでは記載されています。
特に、人口の多い、中国人、韓国・朝鮮人、ブラジル人については特に抜き出して記載されています。
こちらは、中国人の比率が高い市区町村ランキングです。
一般的なイメージだと横浜など中華街がある街に人口が多いと考えがちで、実際多いのですが、ダントツの一番になっているのは長野県の「川上村」という聞きなれない村。
この村、ブランドレタスの産地として有名で、「平均年収2500万円」を謳っているようです。
しかしその実態は、12% 超えという他では見えない尋常でない中国人比率を見てもわかるように、大量の格安の労働力......技能実習制度という名で大量の中国人を非人道的な環境で労使することによって支えられている、ということのようです。
「風評被害」という声もあるようですが、中国人労働者も皆 2500 万円の収入を得ていることを証明できれば、自治体も風評被害の噂をかき消せると思います。皮肉です。
このように国の統計により明らかになる圧倒的に突出した人口バランスからも、尋常な環境ではないことは想像できます。
川上村以外にも、大都市というよりは地方の、ある意味僻地と言えてしまうような市区町村で外国人の比率が高くなっており、この国の今の姿がうっすらと浮かび上がっているようにも思えます。
という感じで、見てて飽きないサイトなのでなかなかの時間泥棒になってしまいますが、こんなふうに探すと日本の行政も面白い情報をたくさん発信しているのだな、と思ったりしました。
ラ・ラ・ランド
「ミュージカル映画、結構好きだよ」という一言で、封切り直後に見に行く事になったこの映画。
鑑賞後の感想は、いい映画だな、と思う反面、これは誰向けの映画なんだろう?と感じさせる映画でした。
基本的には、ロサンゼルスを舞台に、スターを目指す若者たちの青春映画で、ハリウッドを中心としたショービス賛歌な映画。最初に提示されたプロットを 1mm も外さない予定調和で単調なストーリーもあり、数々の映画の名シーンをオマージュしたと思われる演出の妙を楽しめる「ハリウッド映画大好き」の「映画上級者」の人でないと心の底から楽しめない映画なんじゃないかな、と感じました。
少なくとも、日本人の一般市民の僕には、この映画に感情移入をするというのは、かなり難しいのではないか、というのが正直な感想です。
そんな感想を抱いて映画館を後にしたあと、こんな映画批評を見かけました。ああ、同じような感想を抱く人は、他にもいるんだな、と。
映画は嗜好品なので、皆が自分たちの価値観で好きなように楽しむのが良いと思います。なので僕は「ラ・ラ・ランド」はあまり楽しめませんでしたが、この映画を楽しむ人もいて然るべきだと思います。
トランプ政権成立後「アメリカ社会の分断」が叫ばれる中、その分断を作り出している張本人の一翼であるスーパーリッチ層の価値観だけを詰め込んだこんな映画が過剰に熱狂的に取り上げられるのは、そういう時代を写している鑑であるという言い方もできるのかもしれません。
同じミュージカル映画であれば、個人的には、今の時代にこそ「ヘアスプレー」のような映画が求められても良いのにな、と思います。
太っている人、黒人、そして同性愛者(主要役柄でそういう役を演じている人は居ませんが、あえていろいろ噂のあるジョン・トラボルタに女装をさせるあたりが非常にあざとい感じ)などなど、マイノリティと称されがちな人々が抑圧されたものを解放して主役に躍り出る「You Can't Stop The Beat」の爽快感は、比類なきものです。
僕は、特定の人たちの価値観だけを色濃く映し出す「ラ・ラ・ランド」よりも、人々の固定観念を壊して社会が融合していく様を描いた「ヘアスプレー」の方が好きですし、世の中もできればこの映画のように多様性にたいして寛容になると良いな、と思ったりします。