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満州文化物語

 

満洲文化物語 ユートピアを目指した日本人

満洲文化物語 ユートピアを目指した日本人

 

産経新聞で連載されていた連載企画を一冊にまとめた本のようです。

満州、とタイトルには書かれていますが、大連など明治維新後に日本が割譲された中国の地域を舞台に、当時のエピソードの数々をまとめられている本になります。

 

当書では加筆修正がされていると思いますが、オリジナルの記事は Web からでも閲覧可能なようです。

www.sankei.com

以前大連に2週間ほど滞在した事があるのですが、整然とした町並みや路面電車が走る風景など、なぜか日本人として郷愁を感じさせる風景を感じたものでした。

大連は近代における日本との歴史的つながりが深い街ですが、実際に日本統治下時代にどのような為政が行われていたか、どんな街の賑わいを見せたのか、なかなか知る機会がありませんでした。

 

 

大連にモダンな国際都市を作り出そうと銀座/心斎橋にも負けない瀟洒なショッピング街(連鎖商店街)を作り出したお話。

当時ロシア革命から逃れてきたロシアのメンバーを集めてハルピンに交響楽団を作り、それが日本にはじめて本格的な交響楽文化をもたらし多くの西洋音楽家に影響を与えた話。

話には聞いていた満州・大連で生活した有名人の数々(李香蘭三船敏郎森繁久彌古今亭志ん生、等々)がどのような生活をしていたか、というお話。

などなど、今まで知ることが少なかった大連・満州の姿、近代日本が世界に通じる大国になることを目指し、文化的にも経済的にもフロンティアであり多くの若者が夢を抱いた満州の姿、というものがおぼろげながら伝わってくる本です。

 

もちろん、日本の侵略の歴史と切り離して考える事も難しいですし、敗戦後の様々な悲劇とも切り離すことができないと思います。

当書の第二章は、そのうち、第二次大戦終了直前にソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破棄して満州国に攻め込んできた様子、その結果生まれた甚大な悲劇についても多くのページが割かれています。

 

当書にも書かれていますが、満州は侵略の歴史、そして敗戦による悲劇の歴史だけがクローズアップされていますが、その一時期の悲惨さだけを取り上げるのではなく、満州に対して当時の人がどのような理想や夢を託し、そしてその地に渡り、何をしたのか、そんな事を理解する端緒としては良い本だなと思いました。

そして、より、満州国で起こった事について、色々な視点で理解を深めることが、この動乱の世界を生きる我々としても得られる糧が多いように思えます。

 

 

現代中国経営者列伝

 

現代中国経営者列伝 (星海社新書)

現代中国経営者列伝 (星海社新書)

 

巷で話題になっている本です。

中国通と称されるライターは数多くいますが、正直「?!」と思うような偏った謎知識を披露して、受けての知識不足を良いことに好き勝手言っている人がそれなりに居るように思えます(具体名は控えます。漫画家で言えば代表格は井上純一さんですが。)

その中でこの人は、「Kinbricks Now」という中国情報サイトを長年運営してきている方で、このサイトは色々な意見を織り交ぜながら中国の等身大の姿を伝えようとする努力が見えるサイトで、この方の書く本であれば読んでみたいな、と思い、購入してみました。

kinbricksnow.com

 

当書の内容としては、中国の立志伝中の英雄になっている経営者8人について、その創業から「第一佣金(最初に掴んだ富)」、そして大成功に至るまでのストーリーが簡潔にまとめられている本です。

中国では当代の経営者の成功譚が「励志书籍(自己啓発書籍)」として大変人気があり、そのテイストを日本語で再現することを企図したもの、のようです。

私も 马云 (阿里巴巴の偉い人) の 励志书籍を読んだりしたことがありますが、中国語としても平易で書かれていますし、たしかに物語が立身出世のお話なので読んでいて躍動感と高揚感があり、人気があるのもうなずけます。

 

さて、当書を読んで思うのは、この本に取り上げられている経営者のほぼ全てが、中国の国策によって保護されていたり、中国ならではのある意味西欧諸国的な視点ではグレーゾーンを踏み越えた行為により他国の富を収奪してでも自国や自社の富を築いており、そんなブルドーザー的な猪突猛進な経営者の姿が描かれています。

愛国心と政府との蜜月が目立つ lenovo (联想) や、ダノングループとライセンス契約を結んだ挙句その利益の大半を掠め取った哇哈哈、大量の違法コンテンツの存在と外国企業のサービスがブロックされているという環境を軸に成長した youku (优酷) などなど。


企業の成長過程が欧米的感覚から想像しやすい例外は、早くから研究開発に多額の資金を投じてきた huawei (华为) くらいですが、huawei も軍人が興した会社ということで政府との結びつきを否定できなかったりします。

実際、huawei の製品はアメリカ政府とのやり取りの結果、2013年にアメリカから撤退したりしていますね。

gigazine.net

 

企業の違法性は置くとしても、阿里巴巴などを含めた大半の企業が中国大陸を主な市場としていて、その他の市場では中国ほどの成功を収めていないことが共通しています。ある意味、中国大陸の旺盛な内需により成長している内向きな企業群とも言えます。


ちょうど並行して読了した『「お金」で読み解く世界史』という本でも、中国は有史以来ほとんどの時期で内需頼りの内向きな為政を行ってきたと書いてあり、ある意味地政学的にも歴史の流れを踏襲しているようにも見えます。

 

「お金」で読み解く世界史 (SB新書)

「お金」で読み解く世界史 (SB新書)

 

 

じゃあ、中国の企業は保護されてきただけで、このグローバル経済の環境下で中国の会社はいつか壁にぶち当たるのか、だから軽んじていても良いのか、というと、そうでは無いことが巻末の「次世代の起業家」の項でよくわかります。

 

この本では中心に取り上げられましたが、この本の8人のような成り上がり社長は最近は影を潜め、欧米で先進的な教育を受けたり MBA を取得したりするエリートが経営の場でも活躍をし始め、その能力は世界上で見渡しても見劣りすることが無いようです。


この本には例として記載されてないですが DJI (世界最大のドローンの会社)のようにグローバルで No.1 の企業が出てきていますし、Uber を中国市場では飲み込んでしまった配車サービスで話題の didi (滴滴出行) の社長は lenovo の創業者 柳传志 の実の娘(柳青)で先日世界中から 60 億ドルの資金調達を終えたばかりだったりと、グローバルで戦える会社が続々出てきています。


そのように移り変わる中国の創業者の姿を、短時間で概観するには当書は素晴らしくよくまとまった本だと思います。

 

飛梅

www.youtube.com

さだまさしは日本の古典文学を範にして歌を作ることが多いです。

この「飛梅」という歌は、タイトル、もしくは歌詞を読むとすぐ分かるように、「東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花〜」で有名な菅原道真の歌、そしてゆかりのある舞台である太宰府天満宮を歌い上げた歌だということがよくわかります。

http://j-lyric.net/artist/a0004ab/l01031a.html

 

この「飛梅」という歌では、古典の概念や詩風を引用しつつ、人の心の儚さや無常観を描き、そしてそれらに関わらず永遠と続くかに見える自然の営みを対比して描き出しています。人と自然、異なる時間軸が同時に表れることで、さらに人間の儚さというものが際立つ歌です。

 

古典を範にした歌ということだと、奈良の春日大社を舞台にした「まほろば」という歌もありますが、この「飛梅」と同様にまほろばも同じようなテーマを描いている歌に思えます。

www.youtube.com

 

人生の営みをテーマにしたかのような、これだけ壮大な世界観を描き出そうとすると、現代の価値観だけではその世界観を埋めるには器が足らず、過去の古典に委託するより他になかったのかもしれません。

結果として、「飛梅」をはじめこれらの歌は、言葉の格調の高さ、荘厳さ、そして長年の間日本で使われてきた言葉を用いることによる説得力と普遍性を獲得しているように思えます。

 

さだまさしの作で、古典に範を取った作品の中での名作・歌曲は、彼が若い頃の作品に佳作、傑作が多いように思えます。

「飛梅」が25歳、「まほろば」が27歳の頃の作品。この作品群を作るにあたりどの程度計算をしていたのか、ただ自分の作りたい作品をそのまま作っただけなのか、想像をどうしても豊かにしてしまいます。いずれにしても、20代でここまで老成した完成度の高い作品を作り出せるミュージシャンは、今後現れてくるのでしょうか。

 

 

個人的に、この「飛梅」という歌は、冒頭の以下の歌詞が心に残ります。

心字池にかかる 三つの赤い橋は

一つ目が過去で 二つ目が現在(いま)

三つ目の橋で君が 転びそうになった時

初めて君の手に触れた 僕の指

太宰府天満宮の心字池の橋にそのような意味があるか、というと、これは完全にさだまさしの創作でしょう。

いずれにせよ、ここに描かれている風景・情景は具体的なエピソードとしても捉えられるし、観念的な価値観の提示や比喩にも見えるし、本当か嘘か現実か夢か、どっちつかずでおぼろげな風景が描かれています。

実は、人が認識できる現実というものは、このくらい不確かな、おぼろげな姿なのかもしれません。

 

この「飛梅」という歌は、遙々と静かに歌い上げられていくなか、二番の中サビから同じメロディ・テンポのまま想像してなかったドラマチックな展開へと進んでいきます。そして盛り上がりが最高潮に達した所で歌い上げられる「いずれにしても春」という歌詞に、計り知れないスケール感を感じる、そんな曲だと思います。

 

西行

願はくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ

そう詠んだ歌のとおり、春先、桜の咲く頃に入寂した西行

旅に生き、自然を詠み続けた人生の中で残された歌の数々は、一千年前の昔の言葉で記されているにも関わらず、今の専門的な古語教育を受けてない 21 世紀の我々でも容易に理解できるような響き、普遍性を持っています。

あらためて彼の作品を読み直して、なぜ彼の作品はここまで読みやすいのか、繰り返し読めば読むほどその言葉の普遍性に心を動かされます。

なにごとも 変はりのみゆく 世の中に おなじかげにて すめる月かな

 何ごとも 移りのみゆく 世の中に 花は昔の 春に変わらず

仏門に帰依したものならではの無常観と表現も出来ますが、桜を愛し、月を愛し、旅に生きた西行の飾らぬ思いがそのまま表されているからこそ、の世界観なのかなとも感じます。

 

そして、日々様々な些事に振り回されて生きている現代人として、幾年も重ねられてきた自然の営みに思いを馳せ、素直に心のまま、ぽつりぽつりと言葉に残していく。そんな行為がなんと贅沢で雅なものであるか、ようやく思い至るところがあります。

日々の営みに正面から向き合うこと、これは刺激が無いように見えたり、若い頃には特に退屈な所作に見えてしまいがちな気もしますが、なんと心が豊かで贅沢なことだろう、と最近は感じるようになりました。

西行の詩才の豊かさに比べると塵芥程度の人間ですが、日々を誠実に生きるために、西行のその歩んだ轍を心の則として、生きていこうかなと思ったりもする今日このごろです。

 

西行全歌集 (岩波文庫)

西行全歌集 (岩波文庫)

 

 

古今和歌集 真名序

最近所用で古今和歌集を眺めていたのですが、「なぜ古今和歌集を編纂したのか」という動機をわかりやすくまとめた檄文的なものとして、仮名序と、真名序があります。

仮名序は紀貫之が「かな文字」体で記したもので、こちらの方が世間的には有名です。

ただ、個人的には、紀淑望により漢文体で書かれた「真名序」の方が、「なぜ歌が必要なのか」を簡潔にまとめられているという意味で、好きな文章です。

それ和歌は、その根を心地に託け、その花を詞林に発くものなり。

人の世にある、無為なること能はず、思慮遷り易く、哀楽あひ変る。感は志に生り、詠は言に形る。

ここをもちて、逸する者はその声楽しく、怨ずる者はその吟悲し。もちて懐を述べつべく、もちて憤を発しつべし。

天地を動かし、鬼神を感ぜしめ、人倫を化し、夫婦を和ぐること、和歌より宜しきはなし。

私なりに現代語訳をすると以下のような感じ

和歌とは、心という大地に根を下ろし、言葉の林の上に開く、美しい花のようなものである。

人生は無為に過ごすことはできない。気持ちは移ろいやすく、悲しかったり楽しかったりする感情も行ったり来たりを繰り返す。感動は心に生まれ、詠となって言葉に表れる。

なので、楽しく暮らしている人はその声は楽しく、怨念を抱いている人の言葉は悲しい。和歌によって自らの思いを述べ、和歌によりその憤る気持ちを伝えるべきである。

天地を動かし、鬼神の存在を感じさせ、人々に教を伝え、夫婦の中を円満にすることにおいては、和歌より相応しいものはない。

あらゆる森羅万象についての媒介者として、人間の心を通じ合わせるものとして、「和歌より宜しきはなし」と述べています。

今、試作を生業にしている人が、ここまでの自負と使命感をもって同じような発言をすることができるでしょうか。すべての表現者があらためて読んでその意を汲むべき先人の思いが、古今和歌集の真名序・仮名序には表現されているように思えます。

 

仮名序、真名序では他に、和歌の種類は以下の6種類であるとしています。この分類の原典は中国の『詩経』にある「六義」ですが、これを古今和歌集なりの解釈で分類しています。

これらについては現代的な意味というよりも、日本の歴史の中で最古とも言われている詩の論評として、意味があるようです。

  1. 風 / そへ歌   
  2. 賦 / かぞへ歌
  3. 比 / なずらへ歌
  4. 興 / たとへ歌
  5. 雅 / ただごと歌
  6. 頌 / いはひ歌

 

 

 

マリヴロンと少女

宮沢賢治 マリヴロンと少女

正しく清くはたらくひとは
ひとつの大きな芸術を
時間のうしろにつくるのです。

今自分が行っている事は、目の前に見えるものを形に残すために行っているように錯覚しがちですが、実際は自分が歩んだ跡を轍として記す作業であると思っています。

その人の今の姿だけではなく、過去に残してきた轍によって、その人の人となりは評価されます。

過去に行った自分の轍に助けられることもありますし、足を引きづられる事もあります。

 

目の前の利得や他者の毀誉褒貶にとらわれないのであれば、常に、日々を誠実に生きていくことが大事だと思います。

そうでないと、今刻んでいる轍を将来の自分が眺めたときに、心の在処と刻んできた轍のあまりの乖離に、自分自身に対して軽蔑をしてしまうかもしれません。

母親に聞かせたかったさだまさしの歌

僕はさだまさしが小学生の頃から好きですが、母親と一緒にコンサートに行ったことはありませんでした。ある意味親不孝なのかもしれませんし、実際のところ自分の趣味を押し付けないというのは親孝行の姿なのかもしれません。

 

僕の母親は、豊かでない時代に青春時代を過ごし、中学を卒業後すぐに上京をして働き、家庭を持ってからもあまり仕事にも家事にも熱心でない夫の肩代わりのように家族の中心で支え続け、離婚を経験しつつも父が脳卒中で倒れたあとは献身的に支え続けている人です。なぜそこまで強く生きることができるのか、僕のような生半可な人間では到底及びつかない偉大な人です。

そんな母親に、ただ単純に感謝の言葉を伝える以上に、母親の心に寄り添うような事ができないか、といつも考えていました。

 

2年前の2015年に、「風の軌跡ツアー」という、同名のアルバムの名前を冠したツアーが行われました。

このツアーのセットリストは非常によくできており、かつ今の母親にぜひ聞かせたいと思わせる曲が多かったため、僕の人生でいまのところ唯一、母親を連れてさだまさしコンサートに行きました。

さだまさしの歌う世界を通じて、僕の伝えたい気持ちを抽象的に代弁して伝えることができるのではないかと思って。

www.livefans.jp

 

 

www.youtube.com

セロ弾きのゴーシュという歌は、宮沢賢治の有名な小説から名前を借りた曲で、夫をなくした未亡人の追憶の日々を歌った歌です。

今の母も、物言わぬ人となってしまった父の介護をしながら何を思っているのか、過去の辛いこと、それを乗り越える力の源泉となった父への尽きることない愛情、楽しかった思い出、そんなものが胸に去来しながら日々を過ごしているのかもしれません。

そして変わり果てた姿を日常として捉えつつ、過去の眩しい思い出にふと心が揺らぐこともあるのかもしれません。

市場へ行こうと思うの ねェ思い出も売ってるといいのに

 

 

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療養所と書いて「サナトリウム」と読ませます。

入院をしている青年が、同室となった病床に置かれた老婆の姿を思い歌った歌です。

どのような綺麗事を並べても、人は老い、いずれ死ぬという事実は覆りません。ある意味絶望かもしれないし、諦めるしか無いことかもしれません。その現実に直面した時に、人はどのように受け入れ、接することができるか、そのような事を 考えさせる歌です。

まぎれもなく人生 そのものが病室で

僕より先にきっと彼女は出ていく

幸せ 不幸せ それは別にしても

真実は冷ややかに過ぎてゆく

ただしこの歌には、最後に一筋の救いがあります。

その人の生きがいというものは、自分自身が感じるものでありますが、周りの人の温かい心や、関心、ちょっとした優しさというものが形作っていくものではないか、とこの歌を聞いて感じたりします。

 

 

とはいえ、やはり、母に届けたい曲は、この曲だったように思えます。

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母の人生も、長い坂を、一人向かい風に逆らって歩いて行くような人生だったように思えます。

その中で、日々明るさを失わず、強く生きてきた母。

子どもには弱さを見せないそんな母の、心の奥底にある気持ちとはなんだったのか。それは僕にわかるはずもなく、ただその心のあり方を推し量るのみです。

運がいいとか 悪いとか

人は時々口にするけど

そうゆうことって確かにあると

あなたをみててそう思う 

 

なお、こう書いてみると僕が母親をコンサートに連れて行ったことはいい話っぽく見えてしまいますが、母はコンサートに行った日こそ盛り上がって「YouTube でさださんの曲聴きまくるわー」と興奮してましたが、一ヶ月後実家に帰ったら「ゴールデンボンバー」の曲に夢中で、さだまさしの「さ」の字すら完全に忘れていた様子でした。